第四十六回 『死か藝術か』若山牧水
『死か藝術か』若山牧水(大正1年)
<選歌7首>(全386首より)
蒼(あを)ざめし額(ひたひ)つめたく濡(ぬ)れわたり月夜(つきよ)の夏(なつ)の街(まち)を我(わ)が行(ゆ)く
ただひとつ風(かぜ)にうかびてわが庭(には)に秋(あき)の蜻蛉(あきつ)のながれ来(き)にけり
まだ踏(ふ)まぬ国国(くにぐに)恋(こひ)し、白浪(しらなみ)の岬(みさき)に秋(あき)の更(ふ)けてゆくらむ
沖津(おきつ)辺(べ)に青浪(あをなみ)うねる、浪(なみ)のかげにわが暗(くら)きこころ行(ゆ)きて巣(す)くへる
やよ海(うみ)はあをき月夜(つきよ)となるものをわが寝(ね)る家(いへ)に引(ひ)くな木(き)の戸(と)を
皿(さら)、煙管(きせる)、ソース、お茶(ちや)などときどきに買(か)ひあつめ来(き)て部屋(へや)を作(つく)れる
やはらかき白(しろ)き毛布(けつと)に寝(ね)にもゆく昼(ひる)のなやみか仏蘭西(ふらんす)に行(ゆ)く (山本君を送る)
『死か藝術か』について
第5歌集。作者27歳時。宮崎県出身。昭和3年に歿(43歳)。以前に扱った作者の第2歌集である『独り歌へる』(明治43年/25歳)とは、だいぶ異なった感想を持った。格段に上手くなっている、というのが率直な感想である。25歳から27歳にかけて、かなり精力的に歌を作ってきたことが窺える。本歌集には、若者らしい試み、リフレインの技巧など、参考になる歌もあったが、目を引く表現の中でも作者の姿が垣間見えると感じた歌を選歌した。
【参考・引用文献】 『現代短歌全集』第二巻 筑摩書房(1980)
第四十五回 『悲しき玩具』石川啄木
『悲しき玩具』石川啄木(明治45年)
<選歌9首>(全194首より)
途中にてふと気が変り、
つとめ先を休みて、今日も、
河岸をさまよへり。
本を買ひたし、本を買ひたしと、
あてつけのつもりではなけれど、
妻に言ひてみる。
家を出て五町ばかりは、
用のある人のごとくに
歩いてはみたけれどー
手も足もかなればなれにあるごとき
ものうき寝覚!
かなしき寝覚!
誰か我を
思ふ存分叱りつくる人あれと思ふ。
何の心ぞ。
昨日まで朝から晩まで張りつめし
あのこころもち、
忘れじと思へど。
この四五年、
空を仰ぐといふことが一度もなかりき。
かうなるものか?
何か一つ
大いなる悪事をしておいて、
知らぬ顔してゐたき気持かな。
薬のむことを忘れて、
ひさしぶりに、
母に叱られしをうれしと思へる。
『悲しき玩具』について
第二歌集。作者26歳時。岩手県出身。昭和45年に歿(26歳)。感想として、「自由への過信」、自由を求めすぎているのではないかと思えた。その自由の求め方は、社会への反抗期的な姿勢であったり、詩形への新しい挑戦であったり、若さ故の自由の求め方とも考えられる。長生きしていたら、どんな歌を作り続けたのだろうか、そう思わずにはいられなかった。
【参考・引用文献】 『現代短歌全集』第二巻 筑摩書房(1980)
第四十四回 『黄昏に』土岐哀果
『黄昏に』土岐哀果(明治45年)
<選歌17首>(全352首より)
このー小著の一冊をとつて、
友、石川啄木の卓上におく。
もの思ひつつ、街路を歩めば、
行人の顔の、さもしさよ。
ぺつと唾する。
働くために生けるにやあらむ、
生くるために働けるにや、
わからなくなれり。
髪を長く延ばしてみんか、
とも思へり。
世のいやになる心の、いとしさよ。
非常なる力がほしとおもふかな。
わが名すら忘れんとせり、
そと呼びてみる。
大ごゑに、いきなり呼ぶなかれ。
つかれたる心は、いとし、
つひえんとする。
世に、かかる嘘さへ、
いふものか。
その人の顔を、ぢつと見つめし。
この国の男も女も、さもしげに、
黄いろき顔をして、
冬をむかへぬ。
死なんとは、おもはずになりね。
生きんとも、
さまで思わずなりにけるかな。
急に腹の減りしに愕き、
床を出で、顔を洗へり。
朝のすこやかさ。
わが家のだれに向ひても、
言ふことが無くなりぬ、―やがて、
ふいと外へ出づ。
わが友の、寝臺(ねだい)の下の、
鞄より、
国禁の書を借りてゆくかな。
うれし、うれし、うれし、
心、このごろ、
すべてのものを愛するをうる。
やはらかに、
夜着の白さに浮びきし、
そのたそがれの合歓の花かな。
毎日、あさ、電車に乗りて、おもふには、
車掌より、われ、
すこしは、よきかな。
むしやくしやして、
急にすつかり片づけし、
わが六畳の、秋の夜かな。
わが力を、わが心を、
すべてかたむけて、働きしことなし。
一日も無し。
哀しきは、
職業のある、その事を幸福とする。
いまの、心かな。
『黄昏に』について
第二歌集。作者27歳時。東京都出身。昭和55年に歿(95歳)。感想として、これは愚痴である。愚痴ではあるが、若さ故の叫びでもある。愚痴は歌にはならない。しかし、土岐哀果は、やがて土岐善麿として、生涯を文学に捧げた。その覚悟を思えば、この歌集を特に否定する必要はないと思えた。
【参考・引用文献】 『現代短歌全集』第二巻 筑摩書房(1980)
第四十三回『一握の砂』石川啄木
『一握の砂』石川啄木(明治43年)
<選歌七首>(全551首より)
大といふ字を百あまり
砂に書き
死ぬことやめて帰り来たれり
飄然と家を出でては
飄然と帰りし癖よ
友はわらへど
わが泣くを少女等(をとめら)きかば
病犬(やまいぬ)の
月に吠ゆるに似たりといふらむ
何がなしに
息きれるまで駆け出してみたくなりたり
草原(くさはら)などを
尋常のおどけならむや
ナイフ持ち死ぬまねをする
その顔その顔
打明けて語りて
何か損をせしごとく思ひて
友とわかれぬ
はたらけど
はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり
ぢつと手を見る
『一握の砂』について
第一歌集。作者24歳時。岩手県出身。後に土岐哀果と生活派の源流を成す。明治44年に病床につき、45年に歿(26歳)。三行遣いはひとつのアイディアではあるが、一首一行の形式で作歌する際に、漢字が続くことによって助詞や送り仮名を入れるなどの知恵と工夫が必要となる場合があり、そうした知恵と工夫からは離れた場所で歌を作っているように思われた。雑駁な感想として、尾崎豊の世界観に似ていると感じざるを得ない。
【参考・引用文献】 『現代短歌全集』第二巻 筑摩書房(1980)
第四十二回 『酒ほがひ』吉井勇
『酒ほがひ』吉井勇(明治43年)
<選歌12首>(全718首より)
衰へしともなほ知らぬ君見ればああ冷笑ぞ頬にのぼりぬる
歎きつつ三年(みとせ)のまへの相知らぬふたつの世へと別れて帰る
ただひとつ心の奥のこの秘密あかさず別る憾(うらみ)なるかな
いかにせむ君は男の外套を遂に脱がざるかなしき少女
君が家のまへを通るもはばかりぬ鎌倉びとは口のさがなし
隠しゐぬひとり密かに忍び来て君が夜戸出(よとで)を待ちたることも
薔薇(さうび)の香にほひきたりぬわかうどが涙ながしし物語より
珈琲(かうひい)の香にむせびたる夕より夢見るひととなりにけらしな
わが少女水夫(かこ)の腕(かひな)の入墨(いれずみ)のされかうべをも怖れずといふ
ふところに短銃(ぴすとる)あるをわがまへのたはれ女どもが知らぬをかしさ
かたりつつかたみに憂(う)しと思ひ居ぬ覚めたる人と覚めざる人と
かなしみの家と扉(とびら)にしるしたる館(やかた)のまへをたもとほる君
うつくしき白(せりふ)のごとく思はれてわれ聞き恍(ほ)れる君が言葉に
『酒ほがひ』について
作者24歳時の第1歌集。伯爵幸蔵の次男として生まれる。早稲田大学中退後、北原白秋、高村光太郎、木下杢太郎、石井柏亭らと「パンの会」を起こした。歌風は、耽美頽唐で、赤木桁平から「遊蕩文学」であるとの攻撃を招いた。同じく伯爵の出生である徳子と1921年(大正10年)に結婚、1933年(昭和8年)に別居、離別。1937年(昭和12年)、国松孝子と再婚。選歌については、「君」「恋」「二人」「少女」など作者が多く用いている語が、あまり主題となっていない歌を選んだ。
【参考・引用文献】 『現代短歌全集』第二巻 筑摩書房(1980)
第四十一回 『相聞』與謝野寛
『相聞』與謝野野寛(明治43年)
<選歌十五首>(全997首より)
ころべころべころべとぞ鳴(な)る天草(あまくさ)の古(ふ)りたる海(うみ)の傷(いた)ましきかな
三十(さんじふ)をニ(ふた)つ越(こ)せども何(なに)ごとも手にはつかずてもの思ひする
恋(こひ)するはそのよく光(ひか)るさし櫛(ぐし)をかりて心(こころ)をわが照(てら)すため
作者なるMAUPASSANT(マウパツサン)の発狂(はつきやう)に思(おも)ひいたりて手の本を閉づ
わが涙(なみだ)野分(のわき)の中にひるがへる萱草(くわんぞう)の葉(は)のしづくの如(ごと)し
襤褸袈裟金襴(つづれげさきんらん)着たる赤鼻(あかはな)の乞食人(かたゐひと)よぶ奈良の大寺(おほてら)
わが馬(うま)の薊(あざみ)の葉(は)をばこころよく食(は)む傍(かたはら)にこの文(ふみ)を書(か)く
三年(みとせ)ほど見とれてありき美(うつ)くしき夢(ゆめ)の世界(せかい)の画(ゑ)として君(きみ)を
酔(ゑ)ひあざれ日(ひ)のてる下(もと)を相(あひ)行(ゆ)きぬ足(あし)も踏(ふ)ままく手つなぎにして
わかうどはかりそめごとのやうにして中(なか)にも言(い)ひぬ身(み)に染(し)むふしを
筆(ふで)とればすぢなきことを書(か)きつらぬ悪(あ)しきは恋(こひ)の癖(くせ)にもあるかな
悲(かな)しきは舞台(ぶたい)のうへの若人(わかうど)が楽(たの)しき恋(こひ)を物語(ものがた)る時(とき)
うまれつき我(われ)はあなづる父母(ちちはは)をものの教(をしへ)をましてふるさと
一大事(いちだいじ)国(くに)の無得(むとく)をわすれ居(ゐ)き三月半(みつきはん)とし歌(うた)よまぬわれ
大空(おほぞら)の打(うち)黙(も)だしたるさびしさを時(とき)にわが持(も)つわが妻(つま)も持(も)つ
『相聞』について
作者37歳時の第7歌集。明治32年に「明星」創刊。明治34年に晶子と結婚。明星派の全盛期を築く。明治43年「明星」廃刊。この歌集『相聞』は與謝野寛の明星後半期の集大成である。選歌に関しては、本歌集の中で、敢えて、作者が自分を突き放して詠っている(と思われる)歌を選んだ。
【参考・引用文献】 『現代短歌全集』第二巻 筑摩書房(1980)
第四十回 『覚めたる歌』金子薫園
『覚めたる歌』金子薫園(明治43年)
<選歌十三首>(全357首より)
新しきわれを見いでしとある日に覚めたる歌をうたひつづくる
しづやかに梢わたれる風の音をききつつ冷えし乳を啜(すす)りぬ
無花果の青き果(み)かめばなぐさまる、ものうきことの夕まぐれなど
春の夜の二階の隅に明(あか)り取り、うすくあかみて月出でにけり
くちはなの水を切(き)りゆくすばやさをちらと見しより心やぶれぬ
こころ今しづけし見れば青草はややに黄を帯び秋となりけり
酒はよし、酔(よ)へばちひさきものすてて広き世界にわれをおきける
とはいへどただにわれなく酔(よ)ひもえず、生くてふ大事(だいじ)背後(うしろ)にあれば
いかにして生(い)くべきかてふ問題を考ふるべく大人(おとな)になりぬ
君飢ゑむ、かくおもふ時ひしとわがけだるき心とりなほすかな
生(い)くといふこの一語(ご)には千百の歎きかなしみこもりてぞある
ある時はあさましきこともおもひみぬ、老いたる人の安らけき胸
冬の日のをぐらき夕(くれ)の室内の死せるが如きものの色かな
『覚めたる歌』について
作者34歳の第5歌集。冒頭に「この書を友人佐藤橘香(きっこう)に呈す」とある。佐藤橘香については、詳しくは明治34年の文壇照魔鏡事件を追って頂ければと思うが、要するに、「反鉄幹精神」であることを冒頭に述べている。
【参考・引用文献】 『現代短歌全集』第二巻 筑摩書房(1980)