Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の一首 ー 斎藤茂吉

満ちわたる夏のひかりとなりにけり木曽路の山に雲ぞひしめる

 逐語訳:満ち渡った夏の光となっていたなあ、木曽路の山には雲が潜んで(隠れて)いて

 この一首は、全く「短歌」に関連の無さそうなーあるライブ・ハウスのインターネット上の広告欄にー載せられていた。横文字の英語が並ぶ画面に、意図的にか否か、この一首がライブ名として上げられている。

 「茂吉はいい」と歌に慣れてくるに連れて、刷り込まれるように聞こえ、私自身も茂吉の歌の良さを自分の芯の部分に少しは置いておけるようになったと思う。

 けれども、茂吉の凄さというのは、上記の様に、ふっと誰かの気持ち、どこかの気配、をさっと代弁するような普遍性が備わっているところではなかろうか。きらめく夏の光を詠いながら、実は、見えぬ雲の存在を見透かし、光と影の両方を意識出来る頭脳が、彼にはあった。大きな景の中に、人の心のバランスの取り様を重ね合わせてくる様な、哲学的な視点がある。

 知らず知らずのうちに、ある一首が、時代もジャンルも超えて、誰かの懐に入り、その音を震わせ、作者の声を響かせる。

 それは、決して大袈裟な意味ではなく、「歌が人の役に立った」出来事だと、私には深く思える。

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<引用・参考文献> 斎藤茂吉『ともしび』

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*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。

本日の一首 ー 工藤貴響

西の雲払われたれば川の面にひかりを下ろす虹のなないろ

         工藤貴響『八雁』(2021年・7月号) p52

逐語訳: 西にある雲がとりのぞかれると川の水面へ七色の虹がその光を下ろす

 

 綺麗な自然の風景と、二句の詠い出しによる時の経過の導入に、上手さを感じた。この様な、誰が見てもきれいな風景をどう詠えばよいのか、という時に、表現の力が必須であり、且つ、過剰な表現の力で押し込まない「おさまり」を試されると思った。自然詠云々ということは、余り気にならない。推敲が云々ということも、余り気にならない。どうしても皆が美しいと思える景色を、作者が自分の言葉で伝えきっている一首だと感じた。言葉と向き合っている作歌姿勢を思った。最近、めきめきと腕が上がってきておられる。揺らがない実力に向かっているその取り組みに、毎度、励まされている。 

 

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本日の一首 ー 宮澤賢治

せともののひびわれのごとくほそえだは淋しく白きそらをわかちぬ

風来り、高鳴るものは、やまならし、あるひはボブラ、さとりのねがひ。

阿片光 さびしくこむるたそがれの むねにゆらげる 青き麻むら

                  宮澤賢治

 宮澤賢治の詩や童話の文学的営為の源は、実は短歌だった。作り始めたのは石川啄木を知った中学生の頃からで、二十五歳までの期間であった。歌集は出していない。昭和八年、三十八歳に逝去。児童文学者として後年、名をとどめていた賢治であるが、最後に残したのは短歌だった。

病(いたつき)のゆゑにもくちん

いのちなり

みのり棄てば

うれしからまし

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【参考・引用文献】

  塩川治子『歌人番外列伝 異色歌人逍遥』短歌研究社(2020)

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本日の一首 ー 福永武彦

病院の待合室に待ち侘びてさまざまの音を聞き分けてをり

咳すれば暗き伽藍にとよもせる音は五体にひびかひやまず

                  福永武彦

 ちょっとしたことで、この本を手にした。「福永武彦」。間違いなく、私の大好きな作家の名が目次にあった。『忘却の河』新潮社 (1964)を読んだ時の衝撃を思い出した。あれから、二十年は確実に経っている。それでも、その時の皮膚感覚は身体が覚えていた。

 掲出歌は、二首ともに病院や病気を詠ったものである。一首目は素直な歌、二首目は少々、短歌に通じるようになった気配を感じる歌である。どちらにしても、「聞き分け」、「ひびかひやまず」など、動詞によって、歌の筋が通っていると考えられた。

 福永氏は、死の二年前、歌句集『夢百首 雑百首』(中央公論社)を刊行している。

 この時代は、作家であろうが歌人であろうが、文学は文学として、力を持っていた。

 文学に生き、文学に病み、文学に落ち、それくらいの切迫感が日常の傍にあった。

 それが、当たり前であった時代。小説も書き、歌集にも挑んだという点に、私自身は、晴れ晴れしさを覚えた。

 何の為の、短歌なのか。

 小説でも短歌でも何でも、読みたいから読み書きたいから書く。それだけの事である。

 そうしていいのだという、「勇気」を頂いた。けれどもそれは、一昔前には、当たり前の事だったのだと、自戒している。

  

【参考・引用文献】

  塩川治子『歌人番外列伝 異色歌人逍遥』短歌研究社(2020)

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次回の掲載日について。

ご覧頂いている皆様

 

いつも、Karikomuの頁を開いてくださり、本当に有り難うございます。

一身上の都合により、次回の更新は7月1日(木)になります。

断続的な更新状態にあります事、お詫び申し上げます。

何卒、御理解並びに御容赦頂ければとお願い申し上げます。

次回の更新には、久しぶりの『現代短歌全集を読む』を掲載する予定でおります。

 

皆様に置かれましても、心身共に新鮮な何かがあります様。

                                                                         2021年6月24日

                                     関口智子

本日の一首 ー 関口智子 

葉桜に別れを告げてこの風に乗っていこうと決めた花びら

                  関口智子

 

 この歌は、私が高校時代に作った歌である。当時は、俵万智氏のお陰で、ちょっと詩を書く延長上に、この様な歌を日記に書いていた。

 そして、時は経ち、「八雁短歌会」に入るも、横浜歌会出席の折、二進も三進も歌が作れず、この歌を出詠した。出す前から、阿木津氏に諭される事は覚悟していた。

 当日、数票を頂いたが、取って下さった方も口を揃えて、「阿木津さんがこの歌を駄目だというのは分かっていたけれど・・・」と仰った。無論、阿木津氏は「言いたいことはよく分かるが、これは歌ではない」と仰られ、私を含め、皆が納得したと思う。

 以来、この様な歌を、今も作りそうになってしまう時がある。何が歌か否かの境目なのかすら分からなくなって、悶々とすることがある。

 ここで、今日、この歌を掲載したのは、『アララギの釋迢空』を読みながら、私の陥りやすい上記のような歌では無い言葉の羅列は、「フレーズ短歌」と括ると、気持ちの整理が出来ると思えたからだ。

 なぜ『アララギの釋迢空』を読みそう思えたのかは、分からない。自然と思えたとしか言えないのだが、おそらくは、第一章を読み、釋迢空の不器用さを追いかけているうちに、自分の弱点に気付かされたというのが、最も相応しい。再考を試み、次の回に述べることとする。

【参考・引用文献】

  阿木津英『アララギの釋迢空』砂子屋書房(2021)

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本日の一首 ー 永田和宏

「六〇兆の細胞よりなる君たち」と呼びかけて午後の講義を始む

                永田和宏『風位』 

 初めて、永田和宏氏の発言に目を留めたのは、2020年の角川短歌賞の選考座談会での発言であった。大賞候補は五作品であった。永田氏は、「テーマとか、新鮮さは大事だけれど、訴えてくるものという意味で言うと……」、「部分と全体、<略>、個々の部分、フレーズが輝いていないと歌は読めない。それが一首の中で生きているか、全体の中で一首が生きるかという問題があって、部分と全体とがどう流れていくかということが、五十首を詠むときに大事になる」、「去年も言ったかもしれないが、自閉している歌が多い。作者は自分の感じたことを呟いているけど、声が前に出ていないから相手に伝わらない。呟くのではなくて伝えるという作り方の歌が我々に訴えかけてくる。」と述べている。

 その通りだと思った。基、思っていた通りの事を仰っていた。「分かって欲しいという我儘ではなく、伝えたい何かを表現すること」、短歌に限らず、私はそう思って生きて来た。生きて来たというのは、日記や読書を続けて来たことであり、大仰な何かに対してでは無い、自分の価値判断のことである。更には、感覚を尺度にした自分の勝手な判断基準である。

 話を戻す。私の耳にも、「日本学術会議」云々といったニュースは通っていた。政治と経済(カネ)に、なるたけ疎いままで居たかった自分は、聞き流し、人文系の学部が大学、大学院から減らされていることくらいで理解を止めてしまった。しかし、今回の『現代短歌新聞(110号)』の一面を拝読し、すぐに、『学問の自由が危ない』(永田和宏氏・p181-199)を買い求めた。

 まず、何がそうさせたかであるが、『現代短歌新聞』の永田氏の発言に、「一般の方たちは、これは学者の問題であって、自分には関係ないと思っちゃうでしょう。<略> 学問の自由というけど、次は必ず表現の自由にくる。ここで頑張らないと歯止めが効かなくなるという思いが強いですね。」とあり、事の内幕が見えて来たからである。更に、「任命拒否の理由をはっきり言われないとボディブローのように効いてくるんだよね。声をあげられるときにあげなければ、と思っています。」と締め括られている。

 ここで氏の発言にある「ボディブローのように効いてくる」というのは、「われわれ短詩型に関わる者もそうだけれど、おかしいという声をあげられるかどうかが一番大事なところで、そこで声をあげられなかったら表現に関わっている意味がない。まさに表現の自由の問題だと強調しておきたい」という発言に通じる。つまり、政治に異論を唱えることの出来るツールを政府は徐々に減らしていきたいのだーそれも、なるべくならば、日陰的な民衆の目に見えないところでーとまでは分かった。

 まさか、短歌を通じてこの様な出来事を知るなど思いもよらなかった。そして、短歌の第一線にいる方々が政府を相手に、声を上げている。

 永田和宏氏の発言に繰り返し出て来る言葉、「声を上げる」、「訴えかける」、「伝える」。

 そして、こうも述べている。

 「表現者というのはどこかで水面からぴょんと飛び上がらんといかんと思う。いつも皆と同じ背丈で同じ目線でものを見てたらだめで、ときどきは飛び上がって見ないと表現は成り立たない。」

 ぴょんと出て、叩かれて、それでも、声を上げ、訴えかけ、伝えようと、し続ける。

 何を伝えたいのか。なぜ伝えたいのか。それは、平等な、自分にしか問うことのできない、権利である。

 

<引用・参考文献>   

『現代短歌新聞・110号』現代短歌社(2021)

  佐藤学 上野千鶴子 内田樹『学問の自由が危ないー日本学術会議問題の深層』晶文社 (2021)      

『現代短歌』現代短歌社 (2020・3月号) 

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