第六十回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(17)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ③
第六十回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(17)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ③
1、誕生から『植物祭』までー③
〈『植物祭』の世界 〉
ー概略ー
〇表紙へのこだわり
絵画を志していた前川佐美雄は、本人が衝撃を受けた古賀春江の絵を表紙に用いた。これは、絵画画家である古賀春江本人と古賀の描くシュールレアリスムへの敬愛を示していると取れる。
〇巻頭歌から読み取れる『春の日』との違い p64
・表現の斬新さを求める姿勢
・作為的なナンセンス
・奇妙な自己客体化
〇表現の特質
・自己の客体化
・自他の二重性
・自他の交換
・既成への否定意志
〇佐美雄的世界の特徴 p77
-変質者、白痴、鬼ー 佐美雄の変身系列は常に、世間的な尺度への反措定、強い反措定である。こうした否定意志に佐美雄的な世界の大きな特徴の一つがある。『植物祭』におけるナンセンスは、こうした意志の佐美雄的な表出の仕方と考えていい。
〈『植物祭』の史的意義 〉
〇外的な枠組みが本質的な問題ではない大切なのは“方法”である(という主張)。
p105
〇プロレタリア短歌からもモダニズム短歌からも離れる、曲がり角時代の歌集。
p114
【参考・引用文献】
『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)
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次回は、この概略中の、
〇巻頭歌から読み取れる『春の日』との違い(p64)を詳しく掲載します。
・・・・・・④に続く
第五十九回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(16)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ②
第五十九回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(16)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ②
1、誕生から『植物祭』までー②
再上京した佐美雄は、口語歌運動からでた「プロレタリア歌人」と「モダニズム歌人」、いわゆる革新派の新興短歌、そこからまた広がる多様な分岐点や分派によるせめぎ合いの中に入っていき、たちまちその渦中の人となったわけである。
一方、アララギ派は衰退していく焦りから、昭和のはじめに三度の模倣論争を行っている状況であった。
『アララギ』 対 『国民文学』
佐美雄は、昭和2年1月の『アララギ』における土屋文明の批判に対し、『心の花』誌上の「前月歌壇評」を担当して、旧態依然の歌壇作品を批判し、一年がかりの論争を続けた。
ここには、『心の花』で目立つ前川佐美雄の歌を批判すれば、『心の花』そのものの批評水準をも批判することになるという計算を、土屋文明がしていたと考えられる。
佐美雄も準備委員として坪野哲久や石榑茂などと働き、10月に第一回大会が行われる。しかし、機関誌の発行時期をめぐり、意見が対立。12月には連盟は解散した。
この時、『植物祭』は新興歌人連盟叢書のひとつとして企画されていたが見送られた。
昭和4年 3月 新興歌人連盟から枝分かれした、石榑茂とともに『尖端』を創刊するも、石榑茂の歌壇引退などもあり12月には終刊。『プロレタリア短歌集』の刊行などにも携わるが、12月には「前衛短歌」を脱退した。
後に、この12月の脱退について、『春の日以前』のあとがきで、佐美雄は、「私が後に新興歌人連盟に関係し、プロレタリア短歌などを作ったりしたのは、私自身思想的に何の訓練もなされていなかったからである。(略)ただ、何となく魅力があって、ハイカラに思えたのであるらしい」と説明している。
昭和5年 7月 『植物祭』発行
昭和5年 10月 『心の花』誌上で93頁にわたる『植物祭』の批評特集が組まれる。これは、反写実主義の機運が歌壇にみなぎっている時代だから、ニューウェーブの『心の花』的なものの代表選手を全力で支えるための大特集だといえる。
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その『植物祭』の世界とは、どのようなものであったのか、あるのか。
・・・・・・③に続く。
【参考・引用文献】
『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)
第五十八回 私はなぜ前川佐美雄が好きか(15)ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ①
第五十八回 ー『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)に学ぶ①
1、誕生から『植物祭』まで
1903年 明治36年 2月5日 奈良県 忍海(おしみ)にて、前川佐美雄誕生
大正10年 4月 「心の花」誌上デビュー(18歳)
大正11年 上京
スムの新潮派に注目するようになる。
大正14年 3月 帰京
1926年 大正15年 9月 再上京(23歳)
大正15年 12月/昭和元年 短歌状況は革新二派に分かれていた。
①新興短歌
文語×口語
定型×自由律
②プロレタリア短歌(のちに定型離脱の流れ
になる)
(アララギ派が仕掛けた論争、この時期、
アララギ派はこうした論争を他にも仕掛
けている)
既成への否定意思からプロレタリアとモダニズム
の両方に感応する。
昭和2年 11月 プロレタリア短歌の影響を受ける。
短歌に全力をあげる。
口語志向の文語定型派という特異な位置を選ぶ。
1930年 昭和5年 7月 処女歌集『植物祭』発行(27歳)
表紙は古賀春江。
昭和5年 10月 「心の花」誌上で『植物祭』の特集が組まれる。
誌上で、「心の花」の代表選手扱いをされる。
1943年 昭和18年 第五歌集『春の日』(40歳)
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〈要約〉
前川佐美雄の処女歌集『植物祭』には、自身の記により、「大正15年9月以前の作品を割愛している」という旨が記されている。その理由として、「(大正15年9月以前の歌は)古典派の悪趣味にひっかかっている」からだとしている。
この大正15年9月という日付けは、佐美雄の再上京の時期と重なっている。そして、割愛した大正15年9月以前の歌は、後に『春の日』として出版され、さらには、『春の日』の巻末には『春の日以前』という章立てもある。
それらを整理すると、
作歌時期は、
大正10年4月~大正11年8月 『春の日以前』
大正11年9月~大正15年9月 『春の日』
大正15年10月~ 『植物祭』
であり、
出版時期は、
昭和5年7月 ~ 『植物祭』
昭和18年 『春の日』(『春の日以前』を含む)
となる。
佐美雄が、再上京した大正15年9月以前・以降とに区切りをつけたのは、古典派から現代派へと変わる意思、すなわち、『植物祭』の意義を強調するためであり、故に、割愛説をわざわざ付けたのである。
では、なぜその様な意思の強調が必要だったのか。大正15年9月に再上京(23歳)をした佐美雄を取り巻く環境を述べる。
そもそも、大正時代が15年間で終わることは予見できることではない。にも関わらず、大正15年(昭和元年)という年の歌壇は、まるで大正期が終わり新しい時代の来ることを予見していたかのような事象が起こっている。「(大正時代のアララギ派を牽引してきた)島木赤彦の死」(大正15年3月)、「雑誌『改造』7月号における『短歌は滅亡せざるか』という特集」(大正15年7月)、「新短歌協会の結成」(昭和2年1月)である。
佐美雄が再上京した三ヶ月後の12月25日から始まる昭和の短歌状況について、木俣修は「昭和短歌史」で次のように述べている。
昭和初頭(すくなくとも昭和十年頃まで)の文壇の様相は、互いに他の二つを否定し合う三派、「既成作家」・「プロレタリア作家」・「新興芸術派作家」が鼎立し抗争する姿にて捉えなければならない。
佐美雄の再上京は経済的に厳しいものだった、実家は没落時であり、佐美雄は跡取り息子だった。それを押し切り、文学的な決意を持って再上京したのである。
そうした決意を持った佐美雄の前にある景色は、「文語定型守持の『アララギ』が主導する既成歌人」対、それに挑みその勢力を打破しようとするために発足された口語歌運動からでた「プロレタリア歌人」と「モダニズム歌人」の三派の鼎立という姿だった。
・・・・・・・・・②に続く
【参考・引用文献】
『前川佐美雄』三枝昂之 五柳書院(1993)
第五十七回 『蹈絵』白蓮
第五十七回 『蹈絵』白蓮(大正四年)
<選歌8首>(全319首より)
われといふ小さきものを天地の中に生みける不可思議おもふ
蹈絵もてためさるる日の来しごとも歌反故いだき立てる火の前
吾は知る強き百千の恋ゆゑに百千の敵は嬉しきものと
天地の一大事となりわが胸の秘密の扉誰か開かね
我が魂は吾に背きて面見せず昨日も今日も寂しき日かな
わが足は大地につきてはなれ得ぬその身もてなほあくがるる空
ゆくにあらず帰るにあらず居るにあらでいけ生けるかこの身死せるかこの身
いくたりの浮れ男の胆を取る魔女ともならむ美しさあれ
眠りさめて今日もはかなく生きむため偽りをいひ偽りをきく
さめざめと泣きてありにし部屋を出て事なきさまに紅茶をすする
〈メモ・感想〉
第一歌集(作者30歳時)。伊藤白蓮(柳原白蓮)。本名・燁子(アキコ)。華族出身。1894年(明治27年)、9歳で遠縁にあたる子爵・北小路隨光(きたこうじ よりみつ)の養女となり和歌の手ほどきを隨光よりうける。明治33年に佐佐木信綱の門に入る。大正10年に宮崎龍介との恋愛事件の為、嫁いでいた伊藤家を去り、同12年に龍介と三度目の結婚。昭和10年、短歌雑誌「ことたま」を創刊して主宰した。昭和19年、早稲田大学政経学部在学中の長男・香織が学徒出陣し、翌年の昭和20年8月11日、所属していた陸軍・鹿児島県串木野市の基地が爆撃を受けて戦死(享年23)。昭和44年に逝去(81歳)。
正直なところ、見て見ぬふりをしようとして、ここ三日間程、白蓮の歌について気を揉んでいた。第一印象は、自分の発想に似ており、親近感はあるのだが、それがなぜか心地よくない。白蓮は壮絶な生い立ちの中で歌によって救われたことは確かである。だからであろうか、大きな景を詠っているようでそれは個人の悲哀に回収されている。私自身が短歌を学び始めた頃、目指していた方向によく似ているのだ。気持ちが分かるだけに歯痒い。その近過ぎる距離感に、私は戸惑ったのだ。
【参考・引用文献】 『現代短歌全集』第三巻 筑摩書房(1980)
第五十六回 『潮鳴』石榑千亦
第五十六回 『潮鳴』石榑千亦(大正四年)
<選歌8首>(全377首より)
天も地もしめりもちたる曇り日に
白樺の木の目にきらきらし
旅にして剪りたる爪の
黒くなりて又剪りぬべく
日数経にけり
日は暮れぬ
山も 野も 海も見えずなりて
帰るべき家のただ目に浮かぶ
ささとふる雨の音かな
はつはつに葉をはなれたる黍の穂の上に
今もかも
火を噴きぬべき頂に立てりと知れど
すべの知らなく
〈メモ・感想〉
石榑千亦。明治2年、愛媛県出生。明治22年上京し、落合直文や正岡子規に学ぶが、26年佐佐木信綱の竹柏会に入会。大正4年に第一歌集『潮鳴』を刊行(自身46歳)。序文を佐佐木信綱が書いており、べた褒めしている。
感想として、上手いのになぜか読んでいるうちに疲れる、なぜ疲れるのだろうか、ふと、素直さが足りないからだと考え至る。しかし、それは作者へだけでなく、読者の私の心にも問いかけていくことだと思った。
【参考・引用文献】 『現代短歌全集』第三巻 筑摩書房(1980)
第五十五回『生くる日に』前田夕暮
第五十五回 『生くる日に』前田夕暮(大正三年)
<選歌九首>(全534首より)
わが行くはひろき草場のはつ冬のうす日だまりぞ物思ふによし
塚(つか)の如くつまれし草に火を放て焔ちぎれて青空にとべ
走り行く舗石(しきいし)の上、走り行く深更(しんかう)の町われとかなしく
黒みたる広葉を風にひるがへし日の光みぬ一もと臭木(くさぎ)
我が父を眼病院にともなひぬ冬青(もち)の葉のなかの白き病室
赤くにじめる日没(にちぼつ)と白くけむる花、草いきれ強し空気よどめる
数人の男きたりて打ち黙し木を植う、青き木をめぐりつつ
日の光海いつぱいにひろごるも弟のかなしみも海いつぱい
日光にふれずして死にしわが妻の胎(はら)の児(こ)おもひ飯はまれざり
〈メモ・感想〉
明治16年7月神奈川県に生誕。第三歌集(作者31歳)。明治37年に上京し、若山牧水と同時期に尾上柴舟の門に入り、車前草社を結ぶ。
【参考・引用文献】 『現代短歌全集』第三巻 筑摩書房(1980)
第五十四回 『夏より秋へ』與謝野晶子
『夏より秋へ』與謝野晶子(大正三年)
<選歌十二首>(全 767 首より)
琴(こと)の音(ね)に巨鐘(きよしよう)のおとのうちまじるこの怪(あや)しさも胸(むね)のひびきぞ
人(ひと)の世(よ)の掟(おきて)の上(うへ)のよきこともはたそれならぬよきこともせん
くろ髪(かみ)の女(をんな)の族(ぞう)は疎(うと)けれどわが師(し)となりぬ人(ひと)うらやむ時(とき)
人人(ひとびと)はわが話(はなし)にてしづまりぬ秋は斯(か)かりと思(おも)ふ夜(よる)かな
わが閨(ねや)にやがて丁子(ちゆうじ)の匂(にほ)ふ日(ひ)の来(きた)らむなどと他(た)をおもへども
外(そと)にまた似(に)るもの無(な)しと思(おも)ひたる高(たか)き愁(うれひ)にやや近(ちか)し秋(あき)
廊(らう)などのあまり長(なが)きを歩(あゆ)むとき尼(あま)のここちす春のくれかた
自(みづか)らをめでざるまでに到(いた)りぬとわれ見(み)え透(す)きしいつはりを云(い)ふ
まぼろしに目(め)に見(み)ゆること少(すく)しづつ異(ことな)りゆくも哀(あは)れなるかな
夕(ゆふ)ぐれの光(ひかり)に透(す)きて動(うご)く人(ひと)高楼(たかどの)にあり水色(みづいろ)を著(き)る
南風(みなみかぜ)吹(ふ)きあほる日(ひ)はすさまじき老女(らうぢよ)の手(て)見(み)ゆ春(はる)の日(ひ)ながら
夏(なつ)来(く)ればすべて目(め)を開(あ)く鏡(かがみ)見(み)て人(ひと)に勝(まさ)るとするもこれより
『夏より秋へ』について
第十一歌集。作者50歳時。大阪府堺市出身。明治11年生、昭和17年に歿(63歳)。
【参考・引用文献】 『現代短歌全集』第三巻 筑摩書房(1980)