Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の一首

  学生の影疎らなるキャンパスやひときわさびし三月末日  

       篠原三郎『キャンパスの四季』 みずち書房(1991)p26

 

 我等「八雁」にいつも、励ましのお便りをお送りくださる方がいる。同姓同名だろうか。この本は、2012年に、私が「八雁」の正会員になった時に詠った「歌作る覚悟を決めたその日から途端に作れなくなる歌よ」という歌へ、「なんだか愉快になってきた」とのお言葉を添えてくださった折りに、探し求めた歌集である。どの様な歌人なのかと前のめりに御著を手に取った。大学にお勤めである様で、他の詳細は存じ上げないままであるが、上手い下手、好き嫌い、などを他人に考えさせることなく、ただ、ごく自然に詠われている歌や作歌姿勢に、かえって学ばされることが多かった。特別に目立つ歌は無い、だからこそなのだろうか、なぜなのだろうか、どうしても手放せない一冊である。

 

 

本日の一首

 さをはうがつ なみのうへのつきを ふねはおそふ うみのうちのそらを

「棹穿波底月 船圧水中天」

 棹は穿つ波の上の月を船は圧ふ海の中の空を  

                            紀貫之土佐日記』 (934年)

 

 19歳の頃、受験勉強の最中に、予備校のテキストで出会った、歌。余程、救われたのであろう。当時の日記に記されている。その頃はもちろんパソコンなどは無く、「さを」「はうがつ」と切り、「はうがつ」とは何ぞや、と古文の講師に尋ねた思い出がある。「さを」「は」「うがつ」であると教えて頂いた。この一首により、古典を古い文学とは決めつけずに、感性は時空を超えるのだと、古文への親愛を持った。

本日の一首

 仰ぎつつ歩みをとどむ夕ぞらはいまだも青きひかりながらふ 

   阿木津英『黄鳥』砂子屋書房(2014)p151

 

 当たり前の事、普遍的な事、それを見つける為に、感じ、感じ、感じ取る事。そして、木を彫り形が現れる如く、言葉で五感の感ずるところを内奥から表に出だす。それが「表現」なのだと、私は思い続け、この歌を上げる。

 

 

 

 

 

本日の一首

 一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております

   山崎方代 『山崎方代全歌集』不識書院(1955)p125

 

 片思いだったのか、悲恋の相思相愛だったのか。いかようにも、切ない思いを斜め上から切り取った一首。本当の恋、とはこのようなものではないだろうか。二人にしか分からない、以上に、通い合っていても、所詮、相手は自分ではない。別れ、離れ離れになれば、その思いは自分だけの過去となる。言い尽くせない、本当の恋。赤く実る小さな丸い南天の実。南天の実は、二人の頭上にあったのか、方代ひとりが気が付いていたのか。

 

 

 

本日の一首

 身をのべてまた身を折りて思ふなり棺よりややベッドは広し 

    稲葉京子 『紅を汲む』短歌新聞社(1999)p59

 

 昨日の選歌の前隣りにある一首。この歌は、難いほど上手い歌ではなかろうか。上手いというのは表面的な言葉の運びだけでなく、もっと強い発想力にある。誰もが思いもしない感触を、表現し尽くしたい。心の底から、自分でない他者にこの瞬間を伝えたい、伝わる様に歌にして、託したい。その謙虚さが、やはり美しい。どんなにか繊細な人物であったのだろうか。高みへ高みへと向かう、上手くなりたいと思う。そしてある時から、「私ならこんな詠い方が出来る」と上から上手さで圧すような作歌姿勢となっていく人を、私ですら見知っている。自分以外の誰かに伝わってほしい、その一心に、表現せざるを得ない、稲葉京子氏の、孤独の深さ、生きにくさがあることを、私は信じ、敬愛している。

本日の一首

 君は今何をしてゐむ働きてわれはうつむきて歌を作れり 

    稲葉京子 『紅を汲む』短歌新聞社(1999)p59

 

 上手い歌はごまんとある。この歌はどうであろう。直情的な一首。これこそが稲葉京子氏のひた向きさを表しているのではなかろうか。私は御著作を拝読する度に、涙が出そうになる。こうまでもか細い神経を持ちながら、細い微光の一条の如く、一首一首が紡がれる。著者の他の本も手に取ったが、私が感銘を受けるのは、いずれのあとがきに、必ずといっていい程、「私は『五七五七七』の詩形を愛する」との旨が書かれている。元は童話作家であった氏が、短歌の詩形を愛し、信じるまでには、様々な考えが巡ったであろう。豊かな想像力を五七五七七の詩形におさめる苦悩を超え、短歌を信じ愛するまでに成った、その過程を思う時、この上なく美しい氏の内面を思わざるを得ない。

本日の一首

一人前のカップラーメン分け合って食う人いずこ真夜中に欲し 

        石川亞弓 「八雁」(2014年9月号)p24

 

 最近、頭から離れない一首である。御本人の許可を得て記載した。2014年とあるから今から六年前、石川さんには、ラーメンを深夜に共に分け合う相手がいなかったことになる。そして、それを詠った。なぜ、その歌を今、強く感じるかと言えば、彼女には現在、「夫」が居り、「子」が居る、これに尽きるだろう。詠われた当時、私自身にも結婚や出産への焦りがあった。けれども、それを詠わなかった。詠えなかった。彼女が心から欲したものが、今、実りとなっていることに、この一首の重みを感ずる。歌の力。これこそが、正に、時の試練に生き残る、「歌」の在り様ではないだろうか。