Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の一首

ついに地がうごきいずると思うまで見あげてあれば脚はさむしも

       村木道彦 現代歌人文庫『村木道彦歌集』 国文社 (1979)

 

「八雁」のS藤様の紹介で手にした歌集である。S藤様によると、塚本邦雄氏、岡井隆氏、寺山修司氏が60年代から70年代にかけて「前衛御三家」であり、村木道彦氏はその周辺にいた人物だそうである。さて、本題である。歌の感想は、「一首一首が『自己完結』」になっている、というものであった。よく言われる「青年の主張」と言い換えられるかも知れない。ただ、2020年の口語短歌とは確実に異なる前衛短歌である。実験的な愉しみはなく、感情の内奥から来る必然性の香りがした。叫びたければ、叫べばいい。だがそれは、他人様に伝えたいことなのかどうか問うて見よ、と私は私に言いたくなった。

 

  

本日の一首

春庭(はるには)は白や黄の花のまつさかりわが家(いへ)はもはやうしろに見えぬ 

青い野にトンネルをうがつ阿呆等よわれはあちこちの雲をとらへる 

夜なかごろ窓をあければ眼(ま)なかひの星のおしやべりに取りかこまれぬ

       石川信雄『cinema』 ながらみ書房(2013) 復刻版 

       初版、昭和11年上梓(作者年齢・28歳)

  「序」を前川佐美雄が書いている。復刻版の帯には佐々木幸綱氏が「『植物祭』と並び称せられた幻の歌集『シネマ』……」と綴られている。「幻の歌集」などとあると手に取らずにはいられない。しかも、前川佐美雄と並び……とあり、益々、期待が募った。しかし、読後に「?」と頭を傾げた。2020年現在の口語短歌の様な「ふわふわ」感。けれども、一つ学びがあるとしたら、石川信雄氏は、少なくとも「五七五七七」の定型からどこまでの破調をするか、自己確認していたのではないだろうか。時代的にも、今現在よりも、破調するには、「勇気」が必要だったであろう。そういう「痛み」ある作歌姿勢に、好感が持てた。

 

本日の一首

不機嫌なあなたが好きと黒板に書きし十五の春のゆふぐれ 

ためらひてとぶ鳥ありや南風に擁(いだ)かれてわがおくつきは建つ 

軍神になれざりしかな回天の錆びゆく春の夜も更けにけり 

教卓にクリームパンの置かれゐてああなんとなく旅に出やうか 

だから心配しないでとふり向けばバージン・ルージュが僕を見つめる 

君が語る留守番電話を聴きながら五月に咲いた花を見てゐる

        喜多昭夫『青夕焼』 砂子屋書房(1989)

 

 同じ集合体(結社)にいらっしゃる喜多昭夫様の第一歌集である。喜多様の歌は誤解を招きやすい。取り分け、女性や性に関する歌は認否がわれる。それでは、若かりし頃はどの様な作歌をなさっていたのか。そこに、私なりの喜多様の歌の落としどころが見つかるのでは、と思い手に取った。「良い歌があるではないか!」と予想外の連発に、「それでは、いつから、誤解を招く様になったのか」と遡っているうちに、春日井健氏の「あとがき」にこう記されていた。

 「喜多は、これまで想像の世界で、自然に明るく、軽やかに羽撃いてきた。いたずら好きの天使のようなその唇の紡ぎだす歌を私は好んだが、今、彼は青夕焼に染まって羽を休めている。いっぱい作り話を楽しんできた喜多に、今後は見てしまったあとの歌を聞きたいものである。」

 この出発点である第一歌集は、喜多様の歌に潜在的に在る大事な何かを、私に感じ入らせた。

本日の一首

影深き沼津の鳶を思ふかな七草粥も昨日に過ぎて

 玉城徹『左岸だより』 短歌新聞社(2010)

 

著名な方だということは知っているが、私はまだこの歌集を手にしていない。この歌を知ったのは、ある短歌の勉強会でのことである。私は偶々、同席し作業をしていた。そして、どなたかの発表を「耳で聴いて」いた。その日以降、下の句が絶えず、耳から離れずリフレインすることが、半年間、続いた。本来、私は他人様の歌を諳んずることが苦手である。しかし、この歌はなぜか、自然に、顕ってくるのである。ある方によれば、玉城徹氏は歌人として哲学の「カント」を読むことを奨められたそうである。短歌の調べをもってして、そこまでの深みを追求する氏の歌より、学びたいことが大いにある。

 

  

 

本日の一首

怒をばしづめんとして地の果(はて)の白大陸(しろたいりく)暗緑海(あんりよくかい)をしのびゐたりき

宮柊二宮柊二歌集』 宮英子・高野公彦編  岩波文庫 (1992)

 

 今年の春、一人住まいを始めた。言わずもがな、家庭の事情だった。看護をしながら短歌に携わっていた日々。両親を残して実家を出ることに、後ろ髪を引かれる思いが無かった訳ではない。けれども、周囲の意見は、皆、一致して「あなた自身の為に、家を出た方がよい」というものであった。当時、基、半年前まで、私は掲出歌を、念仏の様に心の中で唱えながら、過ごしていた。今日、この歌を私は懐かしく思い出している。月日はちゃんと流れていた。今の私は無意識のうちに、どんな歌に己を結びつけているのか。振り返るその日が来るように、読み、書き、詠み、歩き続けるしかない。

 

 

 

 

本日の一首

窓すべて夕焼したる建物のひとつの窓がいま灯(とも)したり

佐藤佐太郎『しろたへ』『現代短歌 9月号』現代短歌社(2020)p65

 

 佐藤佐太郎が好きだと言う方が、周囲に多い。掲出歌は私が初めて目にした、佐藤佐太郎の歌である。上手い。内容もいい。けれども、私は同じ「窓」を素材にした歌ならば、昨日、上げた上田三四二氏の歌により共感した。なぜか。佐藤佐太郎の歌は、私にとっては上手過ぎる。その「職人」的な上手さが、詠いたい気持ちよりも、前に出ている気がしたのだ。