本日の一首 ー前川緑(四)
一日の短かさをわが歎(たん)ずれば冬の薔薇生きて赤き花咲く
この夜ごろ樹々にあらびて吹く風をいと身近しと省(かへりみ)するも
『乳母車』 より抜粋二首
前川緑『現代短歌文庫』砂子屋書房 (2009) p24
<メモ・感想>
一首目は、作りとして「~すれば、~」という基本的な歌い方であるが、場面展開と共に作者の意識の変容が伝わってくる、意味のある場面展開だと思った。また、「歎ずる」という言葉が全体を引き締めていると感じられた。語彙の多さが利いている。二首目は、意味が分からないのであるが、何かを伝えたいという「表現欲求」に心を預けたくなった。きれいな景色、きれいな言葉、きれいな語法、それが悪いとは言わない。必要だとも思う。表現欲求が在っても良い歌だとは限らない。けれども、少なくとも私自身は、常に、この様な表現欲求から端を発し、歌を詠み作りたいと思う。
本日の一首 ー前川緑(三)
わが生まむ女童はまばたきひとつせず薔薇見れば薔薇のその花の上に
月足らず生れ來しは見目淸くこの世のものとわれは思へず
生れ來て硝子の箱にかすかなる生命保ちぬながき五日を
『逝きし兒』
さにはべのつらつら椿つらつらに父の邊に來て病やしなふ
傷負ひてあへなく死にし鳥思へば厠にながき春の日昏れぬ
南京の小皿にのせし夏蜜柑に砂糖をかける午後のつれづれ
冬の燈をあかるくともし夜をあるかつゑといふも夢となるらむ
木々靑き山のかなたは知らざれど生命光りぬ石のごとくに
星ひとつ煌く樹々の中天(なかぞら)になほとけ合はぬ夜の思ひあり
荒(すさ)びたる人のこころをかり立てて穂草丈なす野となりにけり
この夏の荒れし狭庭に下り立てば伊吹麝香草(いぶきじやかうさう)辛(から)く匂へり
『椿』
前川緑『現代短歌文庫』砂子屋書房 (2009)
<メモ・感想>
『逝きし兒』は辛い出来事を詠っている。こういう時、表現力と実感情のバランス、あるいは乖離の加減が試されると思った。類まれぬ視点がこの三首から窺える。『椿』は、どこかー前川佐美雄にも通じることだがー植物と対話しているかのような距離感に、作者の独特さが見出されている。奇妙に感じられる歌だと捉える人もいるであろうが、私は、この奇妙で整っていない、生き辛さを想起させる、これらの歌の虜になっている。<続>
本日の一首 ー前川緑(ニ) おさらい編
昭和十二年七月日支事變始まる
この庭はいと荒れにけり下り立ちて見ればしどろにしやがの花咲く
逐語訳:この庭は大変荒れてしまっているなあ、そこに下りて立って見ると、秩序なく乱れてシャガ(アヤメ科の多年草)の花が咲いている。
朝闇をつんざきて來る銃の音ただならぬ時を額あつく居ぬ
逐語訳:朝の暗闇を突き破って来る銃の音の尋常ではない時を額はあつく在る
奈良に住み西の山見る愁ありその夕雲に包まれやする
逐語訳:奈良に住み西の山を見るもの哀しさがあり、その夕雲に包まれてもいる。
淺茅原野を野の限り泣く蟲のあらたま響き夜の原に坐す
逐語訳:淺芽原野(という地帯)を野のある限り(野原いっぺんに)泣く虫(や哺乳類)のあらたまが響き、夜の野原に坐っている。
秋の光はやくうすれて富みの川べに龍膽つめばわが手に餘る
逐語訳:秋の光は早く薄くなって富みの川辺にてりんどう摘めば我の手に余る。
村人に田畑の話聞く秋を山吹の花の忘れ咲きせる
逐語訳:村の人に田畑の話を聞いている秋を、山吹の花が返り咲いている。
*罫線(アンダーライン)を記してある箇所は現時点で不明な点です。
<引用・参考文献>
前川緑『現代短歌文庫』砂子屋書房 (2009) p21「奈良」
本日の一首 ー前川緑(ニ)
昭和十二年七月日支事變始まる
この庭はいと荒れにけり下り立ちて見ればしどろにしやがの花咲く
朝闇をつんざきて來る銃の音ただならぬ時を額あつく居ぬ
奈良に住み西の山見る愁ありその夕雲に包まれやする
淺茅原野を野の限り泣く蟲のあらたま響き夜の原に坐す
秋の光はやくうすれて富みの川べに龍膽つめばわが手に餘る
村人に田畑の話聞く秋を山吹の花の忘れ咲きせる
前川緑『現代短歌文庫』砂子屋書房 (2009) p21「奈良」
<メモ・感想>
一首目、場面の展開が三つある(庭の荒れ、庭に下りる、花が咲いている)。二首目、「額」という語の独特な言葉の斡旋。四首目、「夜の原」までは分かるが「(夜の原に)坐す」この言葉の解釈が難しい。六首目、「忘れ咲きせる」も説明しようとすると難しいのだが、作り手の気持ちがよく表れている言葉遣いだと感じた。夫である前川佐美雄の歌も、正確な逐語訳はつまらないのに、なぜか、読者を引き込む歌として成り立っているものが多い。前川緑の歌も似たところはあるが、後者はまだ地に足のついたような、読み手に手掛かりをもたらしていると思っている。<続>
本日の一首 ー 前川緑(一) おさらい編
束ねたる春すみれ手に野の道を泣きつつ行けばバスすぎ行きぬ
逐語訳:束ねている春のすみれの花を手に持って野道を泣きながら歩いていると、バスが過ぎていった。
解釈:束ねたるすみれとあるので、摘むのに時間が経っていることが分かる。ずっと泣きながら、野の道を歩 いて行く自分、そこに、バスが自分を通り越して過ぎて行くことで、作者の意識がふと自分から離れる。
ゆふぐれの光を劃(くぎ)る窓のなかに草や木のあり靑き葉さやぎ
解釈:夕方の光を外と内に区切りをつける作用のある窓、その窓のなかに草や木があって、それらの青い葉がざわざわと蠢いている。
李の花に風吹きはじめ透きとほりたる身をぞゆだねる
逐語訳:すももの花に風が吹き付け始め、透き通った身をまかせささげる。
解釈:すももの花に風が吹きかけ始め、透きとおったこの身体をささげる。
野も空も暗い綠のかげらへる景色みるごと君を見はじむ
逐語訳:野も空も暗い緑が暗くなって経る景色を見るようにあなたを見始める
解釈:野も空も暗い緑が翳って時が経った景色を見る様にあなたを見始める。
山の手の小公園ゆ望み見る秋の日の海の靑きかがやき
逐語訳:山の手の小公園にて展望する秋の海の青い耀き
百年もかかる落葉を踏めるごとうららにさせば冬日かなしき
逐語訳:① 百年もかかる落葉を踏む度に、明るく穏やかに差す冬の日が愛しい。
② 百年もかかった落葉を踏むような春の明るい日が差すと、冬の日が愛しい。
<引用・参考文献>
前川緑『現代短歌文庫』砂子屋書房 (2009) p20「鳥のゆく空」昭和11年-昭和22年
本日の一首 ー訂正版 前川緑(一)
束ねたる春すみれ手に野の道を泣きつつ行けばバスすぎ行きぬ
ゆふぐれの光を劃(くぎ)る窓のなかに草や木のあり靑き葉さやぎ
李の花に風吹きはじめ透きとほりたる身をぞゆだねる
野も空も暗い綠のかげらへる景色みるごと君を見はじむ
山の手の小公園ゆ望み見る秋の日の海の靑きかがやき
百年もかかる落葉を踏めるごとうららにさせば冬日かなしき
前川緑『現代短歌文庫』砂子屋書房 (2009) p20「鳥のゆく空」昭和11年-昭和22年
*引用した五首目、「海の(靑き)」が抜けておりました。ここに、訂正し、お詫び申し上げます。
<メモ・感想>
前川佐美雄の妻。そう紹介していいのだろうか。前川緑の歌集である。一首目から、この感触とこの感覚を求めていたのだ、と誰かに伝えたくなった。まるで胃袋を掴まれたかのようにまず心が先を欲し、それから、じわじわと一首一首が身体に入り込んで来る旨味と栄養となり、それがエネルギーと成って自分もこの様な感性を持ちたいと思えてきた体感と滋養。そして、彼女自身のオリジナリティがちゃんとある歌。こういう言い方でしかならないが、「短歌を続けていて良かった」と思える歌集である。<続>
選歌するということ
先日のオンライン歌会には、草林集から3人の方々がおいでくださった。私はいたく感じ入ったのだった。歌評の着眼点が、わたし(たち)と違う。言葉、文法、用例の確かな知識の上にご自身の考えや感じ方があって、言葉に忠実だ。知識を振りかざしたり、議論に打ち勝とうとしたりといった何か不自然なところが全くなく、とにかく歌にまっすぐに向き合うフラットな姿勢…。尊敬した。
興味深く感じたのは、選歌についてである。私の最近気になることの一つなのだ。
歌を選ぶという行為は、最初のうちはもちろん自由に選んでいいのだけれども、やはり勉強に伴って選ぶ目を養わなくてはならない。歌会を通して、自分の選歌を振り返ることが大切だ。
〔振り返りポイント〕
①言葉の使い方や文法の誤りに気付けたか
②自分の勝手な想像や、体験に基づく思い込みを排除して言葉を忠実に解釈できているか
※歌を始めたばかりのとき、「私にもこういう経験があってとてもよくわかる」と発言し、こっぴどく叱られた経験がある。経験の有無は歌と何の関係もない。しかしながら、自分の意識を切り離して言葉に忠実になることは、意識しないと案外難しいのかもしれない。
まず、この①、②が基本だ。これを見落として歌を選んだとしたら、大いに反省しなければならない。①、②をクリアしていたら、まあ第一関門はクリアしたことにしよう。
③作った人の意図、工夫が生きているかどうかを見極められていたか
④歌が誰かの真似や、自分自身の類型に陥っていないか確かめることができたか
この段階になると、勉強量がものをいう。味わってきた歌の数が多ければ多いほど、技巧には敏感になるはずで、成功した技巧と、効いていない技巧の差を見極める目が育っているか、過去の秀歌の用例に比して表現にオリジナリティや新しさがあるかどうか気づける目が養えているか、他の人の歌評を聞いて検証せねばならない。
※私は今この段階で、草林集の方々が「既視感がある」と評した歌を選歌していた。いい歌だと、確かに感じた。そこは間違ってはいない。しかし、「既視感の有無」という観点が意識にのぼらなかった点、また、既視感の判断材料になるだけの勉強を積むことができていない自らの不勉強を大いに反省しなければならない。
この段階まで来ると、あとはだいたい、好みの問題になってくるような気がする。だから、草林集の方々の選歌も分かれて当然なのである。
とはいうものの。
私にとっては、阿木津さんの選が最も気になる。それは、私が阿木津さんを心から信頼し、尊敬し、他の人とは別格だと知っているからだ。言葉を通して人を見抜いてしまう、言葉のまとう気配を嗅ぎ取ってしまう、卓越した力。世俗を離れ、歌の良しあしという判断基準のもとに、皆が同じであるという信念。その人の本質的なところをできるだけ汲み取ろうとする懐の深さ、優しさ、おおらかさ。これは私からみた阿木津さんだから、真実の阿木津さんかどうかはわからない。でも、阿木津さんは出会った時からずっと変わらない。それだけでも十分、信頼に足る。だから、どんな一言でも受け止め、繰り返し自分に問いかけることにしている。
勉強を重ねていけば、阿木津さんのほかにも、この人の目に留まりたいと尊敬と憧れを抱く人が出てくるだろうか。そして、いつか自分の確固たるものの見方が生まれるのだろうか。なんだか、そんなことをふと思った。