Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の一首 ー 阿木津英「釋迢空」について②

 釋迢空の表記法について。迢空は、読点、句読点を用い、又、他行書きも試みている。これは、自身の判断によるものであるが、その根拠は深いものであることを記しておきたい。

 和歌の時代は、短冊や色紙にはしり書きをすることが当然であった。墨書きの字面や字画の感触にまで心をつかい、さらに、そこから、自身の呼吸、思想の休止点、内在している拍子を示すのに骨折ることは、誇るべきことである。

 しかし、活版印刷になると、宮廷詩なる大歌系統の詩形である「五七五七七のみ」が「歌の様式の固定」として残ってしまい、それが、今現代の「表示法からくる読みの固定」になってしまっている。つまり、「どこで、この歌は句切れるのか」という問題が、意味内容のみからの推測となり、作者の呼吸を感じた上での句切れを読み解くことが、疎かになってしまっている。

 以上の点は、歌の生命の為に、常に、読み手として高い意識を持つべきである。

 

<参考文献>

阿木津英『アララギの釋迢空』(2021) 砂子屋書房

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*当面の間、月曜日・木曜日を目処とした週二回の更新になります。何卒宜しくお願い申し上げます。

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本日の一首 ー 阿木津英「釋迢空」について①

 短歌において、「歌のもつ響きの骨格」、すなわち、「形式」は重要である。十人いれば十人十色では駄目である。上手な噺家のしゃべりは素人のしゃべりとは異なる。これは、「歌」なので、最終的には、「耳の問題」である。近代になってから、「形式と内容」の問題ー内容と形式の分離ーが出てきた。現代は、内容主義(政治詠、社会詠等)なので、耳による学びが難しくなってきている。しかし、その耳から学ぶ様に心掛け、それが獲得出来ると、「核」といったものが備わって来る。

<引用・参考文献>

阿木津英『アララギの釋迢空』(2021) 砂子屋書房

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本日の一首 ー 釋迢空 わだつみの豊はた雲とあはれなる浮きねのひるの夢とたゆたふ

わだつみの豊はた雲とあはれなる浮きねのひるの夢とたゆたふ   

 わたつみの豊はた雲と あはれなる浮き寝の昼の夢と  たゆたふ

*歌は「構造」をきちんと分かっていないと、意味が明確に分からない。

*「(雲)と」「(夢)と」は”並列”の「と」になっている。

*「あはれなる」などの形容詞は構成が分からなくなったら外して考える。

*歌の構造がどうなっているかを、まず、見抜くことが大切。それをするには、上から 上から読んで導かれていって、一番下で構造が見えて来る。

逐語訳:海原の上に豊かなる雲があがっている、それと、(自分が)舟の上で浮いて眠っている昼寝の夢と、一緒に、ゆらゆらしている。

解釈:舟に乗っている。随分と長い間乗っている。自分が、寝っころがってうとうとと昼寝をしていると、豊かな真っ白い夏雲が自然と見える。雲も揺らいでいるし、自分も揺らいでいるし、儚い(板子一枚下は地獄)、広い海の上でたった一艘の舟がゆっくり漕いでゆくと、陸の上とは違って、自分が危うげで微かで頼りなく感じられる。もちろん、舟だから始終、ゆらゆらと揺らいでいる。そして、雲も揺れ、自分自身も揺れ、広い大海原にたった一人、存在が非常に危うい感じがして来て、それが、「あはれなる」となるという感慨を呼び起こす。そういう風景であり、そういう感情。

 

<引用・参考文献>

阿木津英『アララギの釋迢空』(2021) 砂子屋書房

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本日の一首 ー 水原紫苑

影ながく曳く人をわが父と識るにせあかしあが花こぼす頃

ひかりさす御堂(みだう)に濡れて長眉の吉祥天の御(おほん)くちびる

飲食(おんじき)の店を尋ねて降(くだり)りゆく階段深き朱(あけ)のいろなる

雲ふみて来たりしやうな男ゐて虹を語らばかなしかるべし

われ在りてわれならざれば部屋といふさびしきものの内外(うちそと)に居り 

  水原紫苑『びあんか』(1989) 雁書館

 私が選んだ、私が好きな、歌を挙げた。この歌集を、如何様にも、一言でまとまった感想を言える者など、いるのであろうか。恐れ多い感性と閃きと、積み上げられた知性に、絶対の「孤独」を感ずる。どこまでも、どこまでも、誰も分かってくれない、分かって欲しいとも願わない、荒ぶる荒野の中で独り立ち尽くす、そんな光景が浮かぶ。私が選んだのは、少なくとも何らかの現実との接点がある歌である。作者は狂っている、狂っているが、その狂い方は間違っていない。分かるじゃないか―歌に重ねて己の経験を思い起こせば―。聞こえるじゃないか―内臓から込み上るその声が―。そして、その声は、絶対に、短歌でなければ表現にならない、きちんとした狂いでもあるのだ。

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本日の一首 ー 詠み人知らず

凍てつきし道げに寒く一人行く一人追いつく冬風のなか

   詠み人知らず

 一目惚れだったと思う。高校の夏休みの課題で、短歌を五首作る宿題が出た。提出後、古典の先生に呼び出され、「毎週十首、短歌を作って来なさい」と言われた。生徒指導担当の恐い先生に言われて、「はい」としか言えなかった。そのうち、大磯で行われた西行祭という歌会(?)を初めとして、「(大磯に)ついて来なさい」と言われ、「はい」としか言えず、何回か歌会に伺った。当時は、何もかも知らないままであったが、今亡きその先生は、『太陽の舟』という結社に属し、熱心に作歌を続け、歌会に臨まれていたと思われる。

 全くの貴重な機会であったとはまるで察しがつかず、同級生のからかいもあって、その期間は、わずか一年半程で終わった。

 上記の歌は、その歌会に欠席なさっていた方の、詠草である。欠席だったので、板書されただけであったが、絶える事無く、未だ、新しい感動をもたらしてくれる一首である。「この歌の様な歌ならば、短歌を続けたい」と言うと、「随分と高望みだな」と、その古典の先生が苦笑いした。

 受験勉強を理由に短歌の提出を断り、それから、二十五年近く経つ。

それでも、音楽、映画、絵画、写真、詩、小説に、この歌が埋没することは無い。

この歌を一枚の大事な絵葉書の様に思い起こして来た。

今ある私の決して頑健ではない覚悟をこの歌は照らす。

私の言葉が、短歌と成ります様に、成り続けます様に。

短歌の美、それを教えてくれた、初めての歌である。

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本日の一首 ー 永井亘(復刻版)『第88号 現代短歌(「第九回 現代短歌社賞発表」)』を読んで。

生きるとき死体はないが探偵は文字をひらめく棺のように
 「静けさの冒険」永井亘 p32(瀬戸夏子 選) 
 
 そもそも、新人賞とは何を指標としているのであろうか。「目新しさ」が最優先基準なのだろうか。そうであれば、なぜその作品が「新しい」のか、その「新しい作品」にはどの様な「新しい養分」が含まれているのか。果たして、その養分はどこから吸収されたものなのか。
 目新しさの話ならば、古くは、○○文学賞で原稿用紙に一枚に斜め書きに文章を書き連ね、名前だけでも選考委員の目に留まる様に、応募要項内の限りを駆使し、目立とうとする話を思い出す。
 今回の、「第九回 現代短歌社賞発表」の受賞作二作品の内、私が引っ掛かったのは、永井亘氏の『静けさの冒険』の、「作品」ではなく、「受賞のことば」にあった。無論、私自身が、現時点で呼ばれている、口語短歌、00世代、に対して、和歌から始まる五七五七七へのリスペクトが欠如している、という強い先入観を抱いている事を認めておく。
   なんやかんや言いながら、永井氏は率直に、「どうして作品を賞に出そうと思ったのか。賞品の歌集五百部が目的でした。自分の歌集を出したい、できる限り低予算で、……」と述べられている。氏はどこかの結社に所属することなく、2018年より2020年までウェブサイトでペンネームで、自分の歌を載せていたそうである。
 どうして、ウェブサイトでは飽き足らず、「歌集」を出したくなったのか。
 なぜ、「自由詩」ではなく、「短歌」の方へ歩み寄っていったのか。
  続く言葉にこうある。「私のような孤立した作者は、この雑誌以外ではデビューできなかったと感じました。僥倖でした。と言いつつ、私は自分の作品が受賞しないはずはないと、確信を抱いてもいたのですが。」〈略〉「作品は、本は、作者の意思とは無関係に、独立した力を持つでしょう。」。
 氏は、とっくに「『短歌』に救われている孤立した私」に気が付いているだろう。
   いつか、いつか、いつか、あなたは、今のあなたそっくりの若者に、同じ言葉を突き付けられるかも知れない。そして、その若者は、あなたの「歌集」を読んでいないかも知れない。
 けれども、私は、
 その時の、あなたの「歌」を読みたい。
 その時の、あなたの「短歌」を読んでみたい。
 「その時のあなた」の為の受賞だったと、「作品」を読みました。

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本日の一首 ー 『第88号 現代短歌(「第九回 現代短歌社賞発表」)』を読んで。

 

<第九回現代短歌社賞>

受賞作品(同時受賞・二作品)

母逝きしこの世の冬の夕空をこゑはろばろと白鳥わたる                          

在りし日の父母を思ひてわれら亡き後をし思ひ仏具を磨く                        

近づきし白鳥のこゑこの丘にしばし響きてふたたび遠し 

打矢京子『冬芽』p24-29(阿木津英 選)

 

晴れた日のスノードームは輝いてもう残酷な不機嫌ばかり                                               

百人のサンタクロースのプレゼントを入れても大丈夫な靴下を履く

永井亘『静けさの冒険』p32-35(瀬戸夏子 選) 

 

<選歌・感想>

 私は、今言われている「口語短歌」、「ゼロ世代」の短歌が、本当に分からずにいる。率直に述べると、「見分けがつかない」のである。そして、その大きな「混乱」にきちんと向き合い、小さな「理解」でも、成すべきだとずっと思っていた。<第九回現代短歌社賞>は「新人賞」にあたる。そこには、「新しさ」が求められる。だが、選考座談会の過程を読み、「新しさ」とは何か、とも問いたくなった。

 受賞作品の、二作品は趣の全く異なるものである。一部、『冬芽』に「新しさがあるか否か」という点が上がっていた。私は、その意見に対して、解釈する側の裾野の広さによって、『冬芽』の「新しさ」が見え隠れするように思えた。ベテランだろうが世界観が定まっていようが、「目新しい」ものが果たして本当に「新しい」ものであり、整ってしまったものは「新しさに欠ける」ものなのか。

 結論から先に言えば、私は、「新しさ」というのは「進化」であると捉えた。それは、一人の人間が今ある自分の歌から脱皮し続ける、その様だと思う。

 その行為を支えるものの一つに古典があり、五七五七七の可能性を、古人がありとあらゆる技巧を駆使して前進してきた、その線上に、今日の「短歌」が在る。

 生きて行く為に「作歌」が必要があれば、今一度、「短歌」とはどういうものなのか。「詩」や「散文」とどこが異なるのか。その内省無くして、「進化」はあり得ない。「基本」を学ばずして、自分の叫び道具になったままでは、「目新しさ」だけで終わってしまう。「基礎」を地固めせずに、ざざっと傾斜を滑り降りる様な態勢のままでは、作歌はおそらく「続かない」であろう。

  『冬芽』にある「孤独」は、『静けさの冒険』にある「孤立」とは、異なる。

  「これが、短歌です」と言われた時に、私自身はそれに耐えうる歌を差し出せるのか。

 私は、口語短歌に、そういう向き合い方をし、し続ける。

 そう、「決意」、した。    

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