本日の一首 ー 阿木津英「釋迢空」について②
釋迢空の表記法について。迢空は、読点、句読点を用い、又、他行書きも試みている。これは、自身の判断によるものであるが、その根拠は深いものであることを記しておきたい。
和歌の時代は、短冊や色紙にはしり書きをすることが当然であった。墨書きの字面や字画の感触にまで心をつかい、さらに、そこから、自身の呼吸、思想の休止点、内在している拍子を示すのに骨折ることは、誇るべきことである。
しかし、活版印刷になると、宮廷詩なる大歌系統の詩形である「五七五七七のみ」が「歌の様式の固定」として残ってしまい、それが、今現代の「表示法からくる読みの固定」になってしまっている。つまり、「どこで、この歌は句切れるのか」という問題が、意味内容のみからの推測となり、作者の呼吸を感じた上での句切れを読み解くことが、疎かになってしまっている。
以上の点は、歌の生命の為に、常に、読み手として高い意識を持つべきである。
<参考文献>
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本日の一首 ー 阿木津英「釋迢空」について①
短歌において、「歌のもつ響きの骨格」、すなわち、「形式」は重要である。十人いれば十人十色では駄目である。上手な噺家のしゃべりは素人のしゃべりとは異なる。これは、「歌」なので、最終的には、「耳の問題」である。近代になってから、「形式と内容」の問題ー内容と形式の分離ーが出てきた。現代は、内容主義(政治詠、社会詠等)なので、耳による学びが難しくなってきている。しかし、その耳から学ぶ様に心掛け、それが獲得出来ると、「核」といったものが備わって来る。
<引用・参考文献>
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本日の一首 ー 釋迢空 わだつみの豊はた雲とあはれなる浮きねのひるの夢とたゆたふ
わだつみの豊はた雲とあはれなる浮きねのひるの夢とたゆたふ
わたつみの豊はた雲と あはれなる浮き寝の昼の夢と たゆたふ
*歌は「構造」をきちんと分かっていないと、意味が明確に分からない。
*「(雲)と」「(夢)と」は”並列”の「と」になっている。
*「あはれなる」などの形容詞は構成が分からなくなったら外して考える。
*歌の構造がどうなっているかを、まず、見抜くことが大切。それをするには、上から 上から読んで導かれていって、一番下で構造が見えて来る。
逐語訳:海原の上に豊かなる雲があがっている、それと、(自分が)舟の上で浮いて眠っている昼寝の夢と、一緒に、ゆらゆらしている。
解釈:舟に乗っている。随分と長い間乗っている。自分が、寝っころがってうとうとと昼寝をしていると、豊かな真っ白い夏雲が自然と見える。雲も揺らいでいるし、自分も揺らいでいるし、儚い(板子一枚下は地獄)、広い海の上でたった一艘の舟がゆっくり漕いでゆくと、陸の上とは違って、自分が危うげで微かで頼りなく感じられる。もちろん、舟だから始終、ゆらゆらと揺らいでいる。そして、雲も揺れ、自分自身も揺れ、広い大海原にたった一人、存在が非常に危うい感じがして来て、それが、「あはれなる」となるという感慨を呼び起こす。そういう風景であり、そういう感情。
<引用・参考文献>
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本日の一首 ー 水原紫苑
影ながく曳く人をわが父と識るにせあかしあが花こぼす頃
ひかりさす御堂(みだう)に濡れて長眉の吉祥天の御(おほん)くちびる
飲食(おんじき)の店を尋ねて降(くだり)りゆく階段深き朱(あけ)のいろなる
雲ふみて来たりしやうな男ゐて虹を語らばかなしかるべし
われ在りてわれならざれば部屋といふさびしきものの内外(うちそと)に居り
水原紫苑『びあんか』(1989) 雁書館
私が選んだ、私が好きな、歌を挙げた。この歌集を、如何様にも、一言でまとまった感想を言える者など、いるのであろうか。恐れ多い感性と閃きと、積み上げられた知性に、絶対の「孤独」を感ずる。どこまでも、どこまでも、誰も分かってくれない、分かって欲しいとも願わない、荒ぶる荒野の中で独り立ち尽くす、そんな光景が浮かぶ。私が選んだのは、少なくとも何らかの現実との接点がある歌である。作者は狂っている、狂っているが、その狂い方は間違っていない。分かるじゃないか―歌に重ねて己の経験を思い起こせば―。聞こえるじゃないか―内臓から込み上るその声が―。そして、その声は、絶対に、短歌でなければ表現にならない、きちんとした狂いでもあるのだ。
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本日の一首 ー 詠み人知らず
凍てつきし道げに寒く一人行く一人追いつく冬風のなか
詠み人知らず
一目惚れだったと思う。高校の夏休みの課題で、短歌を五首作る宿題が出た。提出後、古典の先生に呼び出され、「毎週十首、短歌を作って来なさい」と言われた。生徒指導担当の恐い先生に言われて、「はい」としか言えなかった。そのうち、大磯で行われた西行祭という歌会(?)を初めとして、「(大磯に)ついて来なさい」と言われ、「はい」としか言えず、何回か歌会に伺った。当時は、何もかも知らないままであったが、今亡きその先生は、『太陽の舟』という結社に属し、熱心に作歌を続け、歌会に臨まれていたと思われる。
全くの貴重な機会であったとはまるで察しがつかず、同級生のからかいもあって、その期間は、わずか一年半程で終わった。
上記の歌は、その歌会に欠席なさっていた方の、詠草である。欠席だったので、板書されただけであったが、絶える事無く、未だ、新しい感動をもたらしてくれる一首である。「この歌の様な歌ならば、短歌を続けたい」と言うと、「随分と高望みだな」と、その古典の先生が苦笑いした。
受験勉強を理由に短歌の提出を断り、それから、二十五年近く経つ。
それでも、音楽、映画、絵画、写真、詩、小説に、この歌が埋没することは無い。
この歌を一枚の大事な絵葉書の様に思い起こして来た。
今ある私の決して頑健ではない覚悟をこの歌は照らす。
私の言葉が、短歌と成ります様に、成り続けます様に。
短歌の美、それを教えてくれた、初めての歌である。
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本日の一首 ー 永井亘(復刻版)『第88号 現代短歌(「第九回 現代短歌社賞発表」)』を読んで。
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本日の一首 ー 『第88号 現代短歌(「第九回 現代短歌社賞発表」)』を読んで。
<第九回現代短歌社賞>
受賞作品(同時受賞・二作品)
母逝きしこの世の冬の夕空をこゑはろばろと白鳥わたる
在りし日の父母を思ひてわれら亡き後をし思ひ仏具を磨く
近づきし白鳥のこゑこの丘にしばし響きてふたたび遠し
打矢京子『冬芽』p24-29(阿木津英 選)
晴れた日のスノードームは輝いてもう残酷な不機嫌ばかり
百人のサンタクロースのプレゼントを入れても大丈夫な靴下を履く
永井亘『静けさの冒険』p32-35(瀬戸夏子 選)
<選歌・感想>
私は、今言われている「口語短歌」、「ゼロ世代」の短歌が、本当に分からずにいる。率直に述べると、「見分けがつかない」のである。そして、その大きな「混乱」にきちんと向き合い、小さな「理解」でも、成すべきだとずっと思っていた。<第九回現代短歌社賞>は「新人賞」にあたる。そこには、「新しさ」が求められる。だが、選考座談会の過程を読み、「新しさ」とは何か、とも問いたくなった。
受賞作品の、二作品は趣の全く異なるものである。一部、『冬芽』に「新しさがあるか否か」という点が上がっていた。私は、その意見に対して、解釈する側の裾野の広さによって、『冬芽』の「新しさ」が見え隠れするように思えた。ベテランだろうが世界観が定まっていようが、「目新しい」ものが果たして本当に「新しい」ものであり、整ってしまったものは「新しさに欠ける」ものなのか。
結論から先に言えば、私は、「新しさ」というのは「進化」であると捉えた。それは、一人の人間が今ある自分の歌から脱皮し続ける、その様だと思う。
その行為を支えるものの一つに古典があり、五七五七七の可能性を、古人がありとあらゆる技巧を駆使して前進してきた、その線上に、今日の「短歌」が在る。
生きて行く為に「作歌」が必要があれば、今一度、「短歌」とはどういうものなのか。「詩」や「散文」とどこが異なるのか。その内省無くして、「進化」はあり得ない。「基本」を学ばずして、自分の叫び道具になったままでは、「目新しさ」だけで終わってしまう。「基礎」を地固めせずに、ざざっと傾斜を滑り降りる様な態勢のままでは、作歌はおそらく「続かない」であろう。
『冬芽』にある「孤独」は、『静けさの冒険』にある「孤立」とは、異なる。
「これが、短歌です」と言われた時に、私自身はそれに耐えうる歌を差し出せるのか。
私は、口語短歌に、そういう向き合い方をし、し続ける。
そう、「決意」、した。
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