Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

本日の一首 ー 村山寿朗

 

この長き坂を登るに自転車を降りて押す日がやがてくるべし

       村山寿朗(2001年<牙>11月号) 

石田比呂志 ここに歌ありー<牙>ー作品鑑賞(2003)松下印刷 

 元来は生粋の出不精である私。転居して手狭な住処に移り、コロナ太りも気になって、午前中は散歩をするように試みている。が、しかし、健康へ健全へと向かおうとすると、本音の私が消えていくようで、思い切って開き直る方が、具合が良くなるように思えてならない。「家から出ないで一日中、本を読んでいたいのです」と。そんな折節に、村山寿朗氏の歌を見つけた。将来を有望される程に聡明な方だったそうだが、躁鬱病に左右される人生を過ごされてきたことを知った。掲出歌は、実際に坂の上で育った私にとって、身体感覚から感情移入した歌である。又、四十歳を過ぎ「老い」がよぎるようになった私にとっても、この歌はすっと時の流れを感じさせるものであった。平易な言葉で「哲学」を詠われている。今少し、焦りのある私。見失った「素直」に、もう一度、伏して会合したい。 

現実を貫く力を…2(八雁・石川亞弓)

 前回、石川亞弓さんの歌、

  戦争だ敵だとすぐにいいたがるこれだから男ってやつは

 について、「生産性のない愚痴のようなところが、疵になっている」と書いたのだが、自分の中でもう少しはっきりと言葉にしておきたい。

 

 私が最初にこの歌をいいと思ったのは上の句の部分であった。

 「戦争だ敵だとすぐにいいたがる」でパッと浮かんだのはアメリカ合衆国前大統領、ドナルド・トランプ氏。アメリカ第一主義を掲げ、コロナウイルス感染症については中国の陰謀説を唱えたこともあった。対立する存在を徹底して攻撃する姿勢は、大切な場面もあるかもしれない。でも…と私はいつも考えてしまうのだった。「自分の利益を守ることが第一だ。対立するものは敵である、戦って打ち勝たなければならない。」そうかもしれないけれど…本当にそれでいいのだろうか。

 誰のことを想起するかは読者に委ねられている。一緒に合評を担当していた足立さんは職場を想定していたが、職場に置き換えてももちろん何の問題もない。ただ、職場のことと解釈した場合、歌のスケールが小さく、痩せたものになってしまう。結局、上の句が何について言っているのか確定しない。これはウイークポイントになるだろう。 

 さらにまずいのは下の句である。「これだから男ってやつは」という言い方が男性を一般化するのは事実だ。物事を二項対立的に捉え、対立や分断を招く思想を批判したいのだとしたら、その特性を男性/女性という二項対立でとらえてはいけなかった。いくら怒りが大きかったとしても、この言葉はブーメランのごとく自分に返ってきてしまう。この歌のいわんとしていることはわかるし、そういう現実はあるだろう。しかし「いやいや、僕は戦争は嫌いだ。心外だな」とか「俺には関係ない」と思われてしまったら、男性の心に刺さることはなくなってしまう。ちゃんと、男性の心に届けなければならない。そこが、愚痴っぽくなってしまう原因だろう。

 

 これからは多様性の時代だ。例えば、戦争だ、敵だ、という話になったとして、男性ばかりの均一な集団内で議論をしては恐らく過去の過ちを繰り返すことになるだろう。その議論において、忘れ去られるもの、抜け落ちるものがたくさんある。構成メンバーにマイノリティ(女性やハンディキャップを持った人etc…)がいたら、果たして、導かれる結論は同じだろうか。

 そういう人で構成される会議は長引くし、まとまらない。難しい選択を迫られる場面も生じる。結論ありきで議論する気のない人たち、昇進や利権、金銭が最も大切な人たちにとっては面倒以外の何物でもないだろうが、国際問題にしろ環境問題にしろ、公衆衛生の問題にしろ、もう、そういった目先のことにとらわれていては取り返しのつかない段階に、世界は足を踏み入れている。

 

 今日は毎日新聞BBC News Japan等で、李文亮医師(33)の命日を取り上げていた。2019年12月に中国・武漢で原因不明の肺炎が広がっているとソーシャルメディアでいち早く警鐘を鳴らし、警察から処分され、自らも新型コロナウイルスに感染して亡くなった方である。李医師は生前、「健全な社会は1種類の声だけになるべきではない」と述べていた。自由に発言できる世界になってほしい。そして日本においては、性別によってその発言の比重が意図的にゆがめられないでほしい。そんなことを思った。

第七十五回 『片々』山田邦子

第七十五回 『片々』山田邦子(大正四年)
<選歌三首>(全三〇一首より)

自らの心かき裂き引きむしり狂へりし間に児は這ひそめぬ

我つひに母となりけり海に来てつくづく肌の衰へを知る

家をおき児を見に来たる淋しき女をとがめ給ふな

〈メモ・感想〉

 『片々』、「へんぺん」と読むそうである。本名は「くにえ」。明治23年(1890)に徳島県に生まれる。文学を志し、高等学校卒業後に上京。姉・岩波花子も歌人である。掲出歌は、むき出しの感情が詠われている。子を置いて独りになりたい気持ち。子育てや家事で荒れた自分の手。求められながらも躊躇している間に育ってゆく我が子。母親というものの深さ、母親というものに在る普遍性。昔も今も、変わらない。この寂寥感や悲哀や疲弊に首を垂れると共に、それらがこの先も変わらないことを思い、変わってはならないことだとも感じた。

【参考・引用文献】 『現代短歌全集』第三巻  筑摩書房(1980)

現実を貫く力を…(八雁・石川亞弓)

戦争だ敵だとすぐにいいたがるこれだから男ってやつは

                                石川 亞弓

 

 東京五輪パラリンピック大会組織委員会森喜朗会長(83)は3日、日本オリンピック委員会(JOC)の臨時評議員会で、「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかります」と発言した。女性理事を増やすJOCの方針に対する私見として述べた。
 この日の評議員会はオンライン会議で、記者にも公開されていた。森会長は「女性っていうのは競争意識が強い。誰か1人が手をあげていうと、自分もいわなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです」とも発言。「女性の理事を増やしていく場合は、発言時間をある程度、規制をしないとなかなか終わらないので困ると言っておられた。だれが言ったとは言わないが」などと語った。JOCの評議員からは笑い声もあがった。
 また、「組織委員会に女性は7人くらいおりますが、みなさん、わきまえておられて」とも話した。
 JOCの理事は25人で、うち女性は5人。JOCは女性の割合を40%以上にすることを目標としている。(2021年02月04日朝日新聞

 

 率直に、とても嫌な気分である。この手の男はどこにでもいる。しかし、このような内面をもつ人間がこの地位についていること。この地位にいる人が自分の立場や関わる仕事の意義について深く理解することなく、軽々しく知性を欠いた発言をすること。そして森氏の発言に、下卑た笑いを浮かべたという取り巻きの男たち…。集団になってつるんで、自分とは異質な存在を貶め、排除しようとする、汚い、人間。私は心から嫌悪する。

 

 激しい怒りは、4月、岡村隆史のラジオの時にも感じた。

 23日深夜に放送された「ナインティナイン岡村隆史オールナイトニッポン」。リスナーから寄せられた、新型コロナウイルスの影響で性風俗店に行けないという内容のメールに対し、岡村さんが「コロナが収束したら絶対面白いことあるんですよ。なかなかの可愛い人が、短期間ですけれども美人さんがお嬢やります。これ何でかって言うたら、短時間でお金を稼がないと苦しいですから」などと発言した。(2020年04月29日朝日新聞

 

 このときも、その場にいたスタッフから一同に笑いが生じたという。男たちの、この雰囲気…。弱い者を集団で苛め、軽んじ、貶めて弄び、蔑み笑いながら搾取する。どこから怒っていいかわからなくなる。心が砂になったように空虚だ。

 

 怒りと、悲しみと、深い傷と…

 もう何度、こういう痛みを感じたことか。物心ついたときから、数えきれない。

 ひとつひとつ、反論して、説明するために、自分の怒りと悲しみに向き合う。言葉を探す。そして伝えようと努力して、また傷つく。その繰り返しのはてに、言葉が尽きて、黙るしかなくなる。男性という性に生まれた人は、こういう経験を何度、したことがあるのだろう。この言いようもなく悲しく、悔しく、やり場のない思いを。

 石川さんの歌をめぐっては、男性を一般化しすぎるとの感じ方が相次いだ。

 私は小さな驚きをもってそのことを受け止めた。「性別 + ってやつは」というフレーズを言われたことのない人が、こういう反発を抱くのだろうか。昔、女の子だった私も、きっとこの反発を感じたのだろう。この歌は、愚痴のようなところがあって、生産性のない非難である点に問題がある。しかしながら、「またこういう男が…」「もううんざりだ…やめてくれ」と言いたくなるような嫌な感じが出ている。今回は女性蔑視をする男性を見て、「またこんな男(たち)が…」と、この歌を思い出したわけだが、それは自国の利益や報復のために口角に唾を溜めて戦争をわめきたてる男の姿にも当てはりうる。そういう思考傾向に男女差があるのかは、戦争を決定できるほどの大きな地位に女性が男性と同数かそれ以上の数、進出してみないことには検証できない。今現在、女性よりも男性のほうが多くその立場に立っていることは事実であろう。

 

 八雁では、この歌をめぐっていろいろな意見が出た。いろいろな意見があっていい。私が合評にこの歌を取り上げて以来、私自身、読んでは考え、考えては言葉にしているのだが、何度表現しようとしてもうまくいかなくて、すっきりしない。それは歌そのものの生産性のない愚痴のようなところが、疵になっているからかもしれない。もっと、痛烈な、研ぎ澄まされた、現実を叩き割るような、なにか、そんな強さ。言葉によって現実を鋭く刺し貫き、人々の心を波立たせるような、力。それが、この歌にあったらよかったのかもしれない。

本日の一首 ー 大西民子

インタービュウを終て来てくだる丘の道風にとぎれつつ麦笛聞ゆ

わが教へし舟歌(バルカロール)今も忘れずと何故に書き来しや母となれる教へ子

                (『まぼろしの椅子』)

天日(天日)にまたさらされぬ音もなくあきたるドアをまろび出づれば

モデルなどありて描きしやルオーの絵の小人は前の歯が欠けてゐる

                     (『雲の地図』)

働くことはよごるることか帰り来てハンカチを洗ふゆふべゆふべに

手袋のチュールに透かすトパーズを賜ひし人もすでにおはさぬ

満員のバスに揺られて通ひつつ帰りには見ず桃の花さへ

守られて生きたる日なきわが上にいたくやさしくいざなひの声

                (『風水』)

 大西民子 『大西民子全歌集』(1989)沖積舎

 一読乱読の上、大変、無礼であるが、歌の上手い下手がはっきりとしている歌集だと思った。そして、それは私自身にとって、安心をもたらし、作り続ける事の意味の深さを、しっかりと現前化させるものであった。掲出歌は、どれも、大きな景を詠うものでは無い。誰しもが読んで理解出来る、日常の物事を「『短歌』にしている」のだ。誰かに話してしまえば、おしゃべりで終わってしまう様な事を、一首一首、編んでいる。ほんの少し、日常から浮遊して詠う、詠える。初期の二首は言葉の選択が良いと思った。次の二首は自身の「陰」が素直に出ている。最後の四首は、口にしてしまえば変哲なことを昇華して、広がってゆく世界、を感じた。現実を見る目、現実がどうみえるか、そこからがすでに作歌の出発点なのだと明示している歌集である。

 

本日の一首 ー 岸上大作

血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする

 福島大樹 『「恋と革命」の死』(2020)皓星社 

 以前に、私は岸上大作にフラれている。とある座談会の休憩中、会員のK氏が「僕は岸上大作が好きだ」と言い、内心、聞いたこともない名前に「誰だそれは……」と、図書館で現代短歌全集だったであろうか、を借り、すぐに頁を開くも、「意味が分からない、小難しくて読み辛い」という感覚で、本を閉じてしまった。引用・参考文献は昨年末に会員の方より頂いた本である。「今の私なら分かるかも知れない」という思いで頂いた。通常、初見の前に、知識や情報を取り込まずに読むように心がけているが、過去に一度、火傷した歌人である。ガイドブックになるかもと読み始めた。歌、それ自体は、下手でも上手くもない。その印象は変わらなかったが、岸上氏の「感情の爆発」への感触は、以前感じた堅さから、氏の持つ純粋さへと変化した。生育歴において、苦しまざるを得ない境遇の中、自然と日記や詩を「書く」ことに依って生き延びて来た、「文学」に救われて来た生涯を、想う。最後の遺書は原稿用紙に一マスずつ四角四面に書き綴りながら、命を絶えたとある。書くことを最期まで信じ続けていた、無心に信じ続けていた、純粋に信じ続けていた。貴い。

 

本日の一首 ー 小野葉桜

森(しん)として寝静まりたる下町の家並をかぞへ行きかへるかな

久しぶりの雨の音聴き秋の朝の疲れ心をぢっと伏し居り

夕曇るおほわたつみの静けさよゆるき傾斜地(なぞへ)に蕎麦の花咲き

 小野葉桜 『悲しき矛盾  小野葉桜遺稿歌集』(1987)ふるさと双書 

 若山牧水と同郷、宮崎県の歌人である。氏は「薄幸の歌人」として周知されているが、又、若山牧水と同じくらい、宮崎県出身の歌人として県内では、名が知れ、大事にされてきた歌人である。とある先達に「若山牧水が好きではない」と口にしたところ、「私も、若山牧水より小野葉桜をよく読む」と仰せつかり、この歌集を知った。掲出歌の三首目を拝読し、久しぶりに新鮮さを味わった。一首目、二首目は、少し寂しげな心持ちを大事にして詠われたと感じる。三首目は、「地味」でありながら、景をしっかり捉えた一首。言葉の選びを積み重ね経て、詠えるようになった歌のように思えた。こんなに地味でもエッジが立っている。ほんの少し悲しい時に、寄りかかりたくなる歌集である。