Karikomu

「かりこむ」は、八雁短歌会員を基とした短歌を学ぶ場です。

歌集覚書 髙橋則子『窓』

ひろげたるつばさの内らほの白く下り来るなり春のくもりを

来て動くこの単純を見むと寄る窓ちかぢかと地面に雀

目覚めゆく眼につぎつぎに啼きながら雀枝につく夢の如くに

いくたびと思ひまたおもひ亡き人のことばたちくる活きいきとして

ひともとのとほき青葉は星のごと冬日のひかり鏤めて立つ

飛び立ちて赤き実の前小鳥一つひらめくごとし硝子へだてて

しじみ蝶萩のうねりの枝の間を飛びうつりつつ花のこぼれず

あたたかき雨ふりかかり窓の内活けし水仙の葉も黄ばみけり

あぢさゐははなだに変はる動き出す電車に空地の隅を見やれば

                              高橋則子『窓』

 

 ただひたすらに美しい、大好きな歌集だ。

 言葉の響きや流れ、題材の切り取り方、感性、すべてが美という一つの目標に向かって研ぎ澄まされた感じがする。この境地に至るまでの深い思考、鍛錬、文学(芸術)受容が偲ばれる。言葉によって美を創造するという決意のようなものが、ひしひしと伝わってきた。第四歌集とのことであるが、年月を経てなお何一つ鈍らない、いや、むしろ研ぎ澄まされ、ねびまさりつつ実現した、瑞々しく美しい内的世界が広がっている。もちろん、年月を重ねるなかで人との死別や別れといった経験が詠まれた、苦さのある歌もあるようだ。お手本にしたいと仰ぎ見る1冊である。

 掲出歌の中から一首、鑑賞したい。

 

あたたかき雨ふりかかり窓の内活けし水仙の葉も黄ばみけり

【逐語訳】あたたかい雨がふりかかり、窓の内に活けた水仙の葉も黄ばんでしまったことよ。

 窓があるから、実際に降りかかるわけはないのだが、あたかもあたたかい雨が室内の水仙に降りかかるように詠まれている点が非常によくて、心惹かれた。また、花瓶に活けた花ではなく葉に着目し、しかもそれが枯れかかって黄ばむところを詠んだ点は類型を離れて独自性があるのではないだろうか。結句「黄ばみけり」の「けり」も考え抜かれており、気づきと詠嘆の混ざった意味として状況を細かに的確に言い表している。着眼点が絞り込まれていて、題材の切り取り方が秀逸である。

本日の一首 ー 髙橋則子『窓』

遅き日の曇る日くれてわれひとり居るこの部屋に菜の花零る

柔らかき若葉動きて鉛筆を削りつつゐるわが朝の窓

人のなきあとを生きつぎわが胸に残る声音は暗鬱のこゑ

星一つ月をさかりて白雲をさかりかがやく風のすずしさ

わが顔に似合はぬ帽子いつかはとおもひ思ひて今日わが捨てつ

今日ひと日こころ乱れて空想のとめどもあらず 窓を開けたり

 髙橋則子『窓』(2021)現代短歌社 

<メモ・感想>

「うたとは何かー。みずからにそう問わない日はなかった。」という帯が、胸に突き刺さる。啓示的に「覚悟してこの歌集を開け」という入り口のように思えた。私は出不精なのでほぼ外界は「窓の向こう」という日常を過ごしている。だからであろうか。『窓』というタイトルにぞくっとした。そして、著者も同じく『窓』の内側に居ることが日常であり、窓を開けることが外界へ触れる意味を成している生活を送っている。ひとりの部屋に灰色の曇りの日、黄色い菜の花のはなびらが落ちる。ある朝は、若葉が揺らめきて鉛筆を削る清々しい一日の始まりを迎える。部屋の中では、自己に対峙し、憧れのこもった帽子を誰に相談するともなしに捨てる。窓を開け、外に出てみれば、著者は音や空気を機敏に感じ、深く歌の言葉に換える。ある日は、一日中、室内で空想に耽け、窓を開けて酔いを醒ます。美しい日常の過ごし方。そして、それを一首に深々と下ろしていく力。静かに人目につかない著者の部屋にて、どれほどの鍛錬を積まれたことか。そして、こう思えた。「うたとは何かー。」その問いの答えはこの歌集には無く、著者の心の中に連綿と続いていくものなのだと。

本日の一首

手相見の前に未来の在りし日や 鏡に春の口紅をひく

  八雁会員O氏『現代短歌』No.83(2021)現代短歌社 p128 

 

<メモ・感想> 

  八雁会員O氏の歌である。読者歌壇にて久々湊盈子氏の特選に入っていた。歌評には「一字あけたところがミソで、作者は口紅を引いて鏡の中の現実をしかと見つめているのです。」とある。  私の逐語訳は、「手相占いの前に腰かけ未来を占ってもらい夢を見たことがあったなあ、でも、老いた私は、もうその様なことには、騙されません、信じません。」という、毅然とした女性を想定したものであった。しかし、久々湊氏の解釈を辿ってみれば、「夢、未来、希望、もうその大半が過ぎて、今ここに居る自分を受け止めていかざるを得ない気持ち。過ぎて来た時間よりこれからの時間が少ない、何十年も経って今の現実を鏡の中に見ている私。」と解釈出来る。

  歌の胆は下の句の「 春の(口紅)」 にある。かつては、道端の手相見の一言二言に一喜一憂した若かりし頃の「春」、とは異なり、「春」のもたらす心の弾みを、どこか沈静しながら、口紅を引く作者。作者はあくまでも女であり、現実を射抜いて、あるいは、射抜かされて、鏡の中の己と対峙し続けて来たのであろう。女であることを諦めるな。しっかり老いを重ね、目を反らすな。そうして、最後まで「人間」として自信を持って生きよ。作者に、ぴしゃんと背を正される思いがした。                                                                                                                   

本日の一首 ー 俵万智『サラダ記念日』

 

長江を見ていたときのTシャツで東京の町を歩き始める

「人生はドラマチックなほうがいい」ドラマチックな脇役となる

ハンカチを忘れてしまった一日のような二人のコーヒータイム

 俵万智『サラダ記念日』(1986)河出書房新社 

 

<メモ・感想>

 「生きることがうたうこと・・・・・・うたうことが生きることーなんてことない24歳が生み出した感じやすくひたむきな言葉。三十一文字を魔法の杖にかえ、コピーライターを青ざめさせた処女歌集。空前絶後のベストセラー!」と裏表紙にアピールされている。「万智ちゃん」に憧れて青春時代を過ごした。確か、この頃は「ファジー」という言葉が産業のコンセプトとして流行り、家電製品を始めとするCMなども物語風やドラマのシーンのような、大人のかっこいいライフスタイルが多かったと記憶している。女性の一人暮らしもおしゃれなものとして雑誌などに載っていた。自動的に、子どもは、「大人になったらあんな風に・・・」と、ふわふわした夢を描く、そういう世間の流行りや風潮があった。

 掲げた歌の三首目の頁に折り目がついていた。私はこの表現を幾度となく会話の中で、使ったことがある。けれども、それが俵万智の歌からの引用だったことなど全く覚えておらず、もう少しで盗作しそうな程、すっからかんに忘れていた。どこでどう言われようと、影響を受けたことを決して否定出来ない自分が居る。

 あの時代には、従来の、石垣りん工藤直子のような「確固たる『詩』」ではなく、このような、「ファジーな『ポエム』(銀色夏生貞奴・・・etc)」、ちょっと気の利いた、フレーズと写真を組み合わせた、贈り物などになるようなミニ写真集が、本屋に平積みにされていた。それこそ、俵万智の短歌が、キャラメルのおまけに付いていた、そういう時代だったのだ。ふわふわした言葉や文章が商品となって、出回っていた。

 さて、「残ったもの」。「作品である」こと。それが、「実力」、だと思う。

 

第七十七回 『無花果』若山喜志子

第七十七回 『無花果』若山喜志子(大正四年)
<選歌七首>(全四六八首より)

あなやこはゆく手もはても薄氷(うすらひ)のわが世なりけり何ふむべしや

この家のぬちわれがうごくも背(つま)がうごくも何かさやさやうたへる如し

まづしくあらば刺して死なんと思ひしをこのまづしさに克ちてゆく身は

今ぞかもわが世はるけし身のまはり澄みてさ青に水の如けれ

はつとして身うちのうごきこそばゆささて何とせん椿咲けるを

君がまどはいつも開きあり暗くして春の黄ばみになほ暗くして

もの洗ふと背戸にいづればたもはゆの君がまどべに君はゐるかな

 

 〈メモ・感想〉

  若山喜志子は、若山牧水の妻である。病床に伏した喜志子の代わりか、「巻尾に」と、牧水はこう記している。「夫婦で居ながら、そして相当の同感尊敬をも持ちながら、私は彼女の歌に就いて會てかれこれ云った事がない。(略)よしあしにつけ彼女の歌と私の歌とは餘に性質が違って居る。」「自身でも云ってゐるが、彼女は會て歌といふものを学んだことがない。古人の作を読まず、今人の作すら殆ど知つてゐないだらう(略)自然、幼稚であり、かた言にも流れる。斯ういふ人の癖として頑固も強い。」「両人はめいめいの路を歩んで来たのであるが、(略)矢張りこの方がよかった、彼女のためにも私のためにも確にこの方がよかったと。(大正四年十二月七日、三浦半島にて 若山牧水)。」私は夫婦というものを知らないが、牧水の歌に、止めようもなく、喜志子の存在があったことだけは、覚えておきたい。

 【参考・引用文献】 『現代短歌全集』第三巻  筑摩書房(1980)

本日の一首 ー 黒瀬珂瀾『ひかりの針がうたふ』

手に取れば冑蟹(かぶとがに)は身を反らしたり海立つとき吾もをさなし

見え難き世界の罅をさぐるごと妻はテープの切れ口さがす

眠りゐる妻と児を部屋に鎖(とざ)したる昧爽の鍵にぶく光るも

やよひはやくも花ちりそむを助言など無視せよといふ助言たまはる

妻と児を待つ交差点 孕みえぬ男たること申し訳なし

 黒瀬珂瀾『ひかりの針がうたふ』(2021)書肆侃侃房 

<メモ・感想>

著者は男性であり、一児の父親である自分、父親となった自分を主なテーマとして、詠われている。そこには、子どもを孕むことの出来ない男の性、母親と子の絆をも、分かり得ながら、動かしがたいものに畏怖を感じている父親の特性、父親の孤独が伝わって来る。昨今は、ジェンダーに焦点を当てた物事、出来事が注視されている状勢にある。ここで私自身が常日頃思うのは、「産まない女性」、「産めない女性」の気持ちを汲み取るまでに至らないまま、男女の性差への平等を意見交換することへの違和感、疎外感である。私は、四十三歳の女性であり独り身である。歳の故なのか、私は、「産めない男性」の気持ちを知りたい、出産せずして「(父)親」になっていく一人の人間の成長を知りたい。そういう観点を持って見渡した時、この歌集はその先駆であることを見事に発揮したものだと思い、また、それに続く歌が、もっとあってよいと思っている。

 

第七十六回 『春の反逆』岩谷莫哀

第七十六回 『春の反逆』岩谷莫哀(大正四年)
<選歌六首>(全四ニ三首より)

帽子をかぶりいそいそとして家を出でぬさていづかたへ足をはこばむ

何となう心うれしきこの寝ざめ春は障子をおとづれにけり

みづからにつらくあたりて見むかともふと思ひけり蟬啼く八月

日の暮るるを待つよりほかに事もなき命を蟬と共に歌はむ

西日さすわが六畳に迷ひ入り迷ひ出でたる蟬のあはれさ

握りつめしこの拳をばいづかたに開かむものか吾は世に出づ

 〈メモ・感想〉

 独居であり、無職である、私にあるものは、時間である。意識して用事を探さねば、退屈で気後れしそうな、時の刻み方をもたらす。何もしなくても、時間が過ぎて行く、それだけでも、息苦しく感じる。そんな時、この『現代短歌全集』を開くことで、救われたことは少なくない。古典の言葉遣いの美しさに感動する。昔も今も変わらない気持ちがある事に、本当に、救われる思いがするのだ。辛くても辛くても、感動が一日一度あれば、生きていかれる。まだまだ、全集は続いていく。まだまだ、生きていかれそうである。

【参考・引用文献】 『現代短歌全集』第三巻  筑摩書房(1980)